ドキドキが具現化される。つまり、目に見える形となって、すっかり可視化できるのだという。
浴びせかけられたリリック、もとい違法マイクの使用効果が判明したところで、なんだそりゃ、と思ったのはきっと左馬刻も銃兎も同じだろう。効果説明の記載された書類は既に警察に引き渡されて無人になった事務所の机に、無造作に残されている。
「……なるほど。”体温や呼吸の深さ、浅さ、脈拍の回数などからドキドキ度を検出。近くにいる二人に効果を齎します”」
「ドキドキってなんだ?」
「さあ。ときめき? みてぇな……おい笑ってんじゃねぇぞ」
「くく、だってよぉ、ときめきってお前に似合わねぇだろ……ま、とりあえず決着つけねーことには効果が抜けねぇみてぇだからな。やるしかねぇだろ銃兎」
「……そうだな」
「先にメーター振り切れた方が負けな」
もう銃兎の方にも、左馬刻の方にも、頭上にハートの形を模したメーターが付いている。硝子のように薄く、透明だ。しかし、触れることはできない。温度は分からないが、きっと触れれば冷たいのだろう、と思った。
このハートが『ドキドキ』ないし『ときめき』で満たされて一杯になった方が負けるゲーム。どんなことであれ、勝負事には勝ちたいのが左馬刻である。それは勿論、銃兎だって同じだろう。左馬刻の選んだ男が、むざむざ負けを晒すとは思えない。
「それにしても何が楽しくてこんなマイクを作ったんですかね。大体なんですか、ときめいた方が負けって……」
「カップルのマンネリ対策じゃね?」
「……へぇ。男抱くのに飽きたなら、俺はいつでも終わりにしてくれて良いが?」
こんなことを言えてしまうのも、二人がカップルという関係性ではないからである。ヤクザと警察、同じラップチームのメンバーであり、それがある時からベッドを共にするようになった。左馬刻はまだ齢25で、血の気も多い。手近に欲を済ませる女が掴まらなかったせいで、手近な男である自分に手を出してきたのだと銃兎は予想している。だから、左馬刻の気まぐれ一つで終わりになる可能性がいつだってあった。
銃兎がそんな未来を示唆してやると、左馬刻は「ヘッ」と銃兎の言ったことなんか全くどうでも良さそうに笑う。
「誰もンな話してねぇだろ。やめねぇわ、お前とヤんの気に入ってんだからよ。ゴムつけなくて良いし、てめぇの情けねぇツラも見れンだろ」
「…………」
「なんだ銃兎、自信ねぇのか? ま、お前ヤってる時もひんひんぐすぐす泣いてお話にならねぇもんな」
「アァ!? あれは演技だボンクラ! お前の悪趣味なプレイに乗ってやってんだよ粗チンヤクザ!」
「アァ!? ブッ殺すぞクソウサギ!」
「ハッ、やれるもんならやってみろ。左馬刻様は興奮するのがお好きなようで? メーター上がってんぞ」
「!! ……チッ、んだよクソが……」
あからさまな挑発を買って、火に油。透明だった左馬刻のハートには早くもピンク色の液体が溜まり始めた。胸ぐら掴み合ったところで、不完全燃焼に終わる。……負けに繋がる興奮は避けなければ。しぶしぶ手を離した左馬刻を見て、銃兎は我が意を得たりとばかりに微笑んだ。
「私の勝ちは目に見えていますね」
「銃兎ぉ」
「え?」
「お前って俺とキスするとき目ぇ閉じて、俺のアロハぎゅっと握ってくるよな」
「っ、」
「俺が指解いてやると、縋るみてぇに手繋いでくるの。すげぇ可愛い」
「なっ、なに言ってんだ馬鹿にすんな死ね」
「死ねって事ァねぇだろ。俺は本気だぜ。なぁ、俺様と手ぇ繋ぐの好きか? 安心する? やっぱり可愛いなウサちゃん」
「うるせぇな黙れ!」
と言いつつ、銃兎のハートは素直なもので、ときめきの度数が跳ね上がり、ハートが恋色で満たされていく。顔を火照らせながら暴言を吐いたところで、全く威嚇になりやしない。左馬刻は笑みを深めた。
「……へぇ、こうやんのか。この程度でって案外チョロいな銃兎。俺様に口説かれてドキドキしちまったのか?」
「クソが……!」
まるで恋人同士の睦言。だが、二人は恋人同士ではない。セックスをするだけの間柄で、甘やかすような言葉などろくにかけられたこともなかったし、言うこともなかった。セックスするだけの仲に、そんなものは必要ないとしていたからだ。
だから、これが初めてかもしれない。左馬刻に優しいことを言われたのは。左馬刻、いつもそんなこと考えてたのか────?
銃兎は馬鹿正直にドキドキしてしまう自分を悔やんだが、それも仕方のないことだと、胸の奥底で納得してもいた。……なんせ、自分はこのセフレのことを以前から好きなので。お慕い申しているので。そんな相手に不意打ちで優しくなどされたら、銃兎の負けが込んでしまうのは明白だった。
「これは俺様の勝ちだな」
「………」
「銃兎?」
「いや、なんでもない」
そうだ。考えてみれば、左馬刻が本気でこんなこと言うはずもない。左馬刻は、ただ勝負に勝つために言っているだけだ。女を相手にするなら左馬刻も本心から『可愛い』と言ったりするかもしれないが、銃兎相手に言うソレは、ただの作戦だから。どうでもいいセフレの男なんかではなく、左馬刻が本気で好きな女を口説く時は、きっと────左馬刻が別の誰かの名前を愛おしげに囁くところや抱きしめるところを想像してツキンと胸が痛くなった。
本命の誰かと自分を比較するなんてバカみたいだ。しかもこのままではゲームオーバーしてしまう。みすみす負けるのは癪だった。
何か、反撃できる策を考えよう。かといって銃兎が左馬刻に向かって、あの左馬刻がドキドキする甘々でとろけるようなセリフなんぞ言えるはずもない。しかし自分ばかりが恥ずかしい思いをさせられるのは真っ平だ。なんとか左馬刻を辱めてやれないものか。考えて、銃兎が思いついたのは、
「左馬刻……」
「ん?」
「お前セックスするとき、いつも俺の胸ペロペロ舐めてくるよな。男の胸なんか吸って楽しいのか? 赤ん坊かよ」
「銃兎ぉ、胸って? 胸のどの部分だよ、言ってみろよ」
「それは……その、てっぺんの」
「ちゃんと言わねぇと俺様ぜんぜん恥ずかしくねぇわ」
「だから、ち……ちくびを、お前が」
「銃兎の乳首を? いつも俺にどうしてもらってるんだよ」
「す、吸ったり舐めたり……指で、引っ張るみてぇにして、つままれて……爪でひっかくみてぇに、される」
「銃兎がエロ乳首になってるせいでそんなことされちまうんだろ。乳首ツンツン勃たせてんのが悪いよな?」
「ちがう、俺じゃない……! 左馬刻が、俺やだって言ってんのに」
「俺様が悪いのか? ん? ……おうおう、ここまで来ればあと一撃ってとこだな」
「!」
ニヤリと口角を釣り上げる左馬刻につられて、恐る恐る頭上を確認すれば、もうピンクの液体が、透明な硝子のハートから溢れそうになっていた。
すっかり恋の色で染まってしまい、逃げ場がない。こんな事故のようなゲームで、必死に隠している恋慕がバレてしまっては困るのに。銃兎は深呼吸をして、何とか平常心を取り戻した。────落ち着け。左馬刻のことは好きだが、左馬刻にバレてなんかない。今までだって上手く隠してセフレやってきただろ。こんなセクハラめいたこと言われたら、誰だって動揺するに決まってる。決して、俺が左馬刻のことが好きだからとか、そういうわけじゃない。誰だってドキドキするだろ、こんなの。
それにしてもこのゲームはなんだ。向き不向きがありすぎやしないか。左馬刻のハートがピンク色になっているのは、銃兎に比べれば少しだけ。先程の口喧嘩で、怒りに興奮しただけだ。まだ取り澄ました透明の部分が沢山あった。可視化できるせいで、見るからに涼しげで、余裕を表しているのがありありと分かってしまう。自分ばかりが好きで、自分ばかりが熱くなっている。左馬刻は、俺の言う言葉にも、態度にも、ドキドキなんてしない……理解してしまうと、酷くやりきれなくなった。悲しい。虚しい。が、左馬刻は銃兎に興味など持っていないのだから、知られることはないだろう。バレなくて良かった。傷ついてるなんて、たかがセフレの男に知られたくない。
「……こんなの、お前みたいにデリカシーと羞恥心のない人間が一番有利じゃねぇかよ」
「そうだなァ? 俺に言葉責めされるだけでトロトロんなって目ぇピンク色にして流されちまうウサちゃんには不利だな」
「テメェ……」
「おー、じゃあ降参するか? 銃兎は何度も何度も俺に組み敷かれてキスされて抱かれて……はしたねぇカッコもしてたもんな? ほら、思い出せよ……」
「っ、やめろ、それ以上は」
左馬刻にしか見せなかった痴態。それを面白がるように利用されてしまっては、自分の矜持もプライドもめちゃくちゃにされてしまうようで、耐えられなかった。どうか気づいてほしい────願いも虚しく、左馬刻は勝利を確信したのか、意地悪く銃兎の耳に囁いた。
「前に犯してやったとき、お前足おっ広げてよぉ、自分の指で尻の穴ぐっぽり広げて」
「やめろよ……」
これ以上は、やめてくれ。左馬刻にそんな風に言われるのは耐えられない。好きな相手に蔑まれ、嘲られるのは苦しい。左馬刻だからこそ身も心も捧げているのに、当の左馬刻には何とも想われていない、心なんかどうでも良い、身体だけの相手だと突きつけられているようで。突きつけられているようで、というか、だって、本当にそうだろう。
「左馬刻様のおちんぽください、もう我慢できません、挿れてくださいってねだってたもんな、銃兎ぉ」
好きな相手だったら、こんな酷いこと、言うはずもない。意地悪をしたって最後は優しく抱きしめて、ごめんなウサちゃんと、言ってくれれば、それだけで許せるくらいに惚れている。それだけで幸せなのに、きっと自分にはその資格さえ、
「もう嫌だッ!! ……うう、やだ、っ、ひぐ、ぅぅ……」
ついに恐れていたトリガーが引かれてしまった。決壊した感情が、取り繕った体裁をぶち壊す。収まりきらず溢れてしまった左馬刻への恋情と怒りと悔しさとが、濁流のように押し寄せ、視界を潤ませ、くしゃりと眉を歪ませ、翡翠の瞳から塩辛い透明の雫がほたほた溢れ、伝い落ちた。驚いたのは左馬刻である。
「え? お、い……おい。銃兎?」
「も、もう嫌だって、言ってんだよ……! お前、俺のこと何だと思ってんだ!! さっきからずっと、俺のこと……馬鹿にすんなっ!」
「じゅ、うと」
「俺のこと何とも思ってねぇからそういうこと言えんだろ! もう左馬刻とは終わりだ! 二度とセックスしねぇ! クソボケ最低野郎! 他を探せ! 俺だって、もっと俺に優しくしてくれる男に乗り換える! どっか他のヤツんとこ行っちまえ!」
「ッ、」
「〜〜〜ッ、左馬刻なんて嫌いだ!!」
バチン!!!!
銃兎が思いの丈すべてを悲痛に訴えた瞬間、派手な破裂音がした。と思えば、頭上にあった心の硝子が砕け散ってゆく残像。ドキドキの限界が振り切れ、ついにハートが容量オーバーしたのだ。それは銃兎の心、ではなかった。余裕のあった左馬刻の。お前さっきまで、ほとんど空っぽだっただろ────?
予想していなかった決着の音に銃兎が目を瞠る。
「っ、ッ、なんでだよっ! なんでっ、気に入ってるって言っただろうが!! 他のヤツなんざいらねぇんだよ!! 別れねぇぞ俺は!」
「さ、左馬刻? お前、」
「うるせぇ! ぜってェ別れねぇ! 本気で嫌なら言わねぇし優しくされてぇなら精一杯俺が優しくしてやるよ!!」
「……うん、もう分かったから」
「銃兎……! ッ分かってねぇ! まだ俺の話は終わってねぇんだよ!」
「左馬刻お前気づいてねぇのか? ドキドキ振り切れてんぞ」
もうゲームは終わり。しかし銃兎は自分のために激昂する左馬刻が愛しくなってしまい、他の男を探そうだなんて気には全くならなかった。左馬刻より厄介で面倒で手がかかって大好きな相手なんて、どうやって作るんだ。無理だろ、と即答できる。
左馬刻は頭上を一瞥するが、そんなことよりも銃兎を出て行かせないように手を握った。
「……俺様が負けたのはムカつくが、関係ねぇ。負けたって別れねぇぞ。二度とヤらねぇのも嫌だ。さっき言ったこと全部撤回しろ」
「お前、負けたのになんでそんなに偉そうなんだよ。負けたんだから俺の言うこと聞いてくれねぇとな」
「っ………」
わざと意地悪な態度をとって、目の前の左馬刻を見つめる。銃兎の冷えきった視線に当てられて傷心したような表情は、それだけきっと、想いがあるからだ。想いがあるのか、左馬刻にも。握っていた手を解こうとしてもガッチリ握られていて離せなくて、正直ときめいた。
「私のはしたないところを見て、いやらしいことを言わせて……内心では淫乱だって蔑んで馬鹿にしてたんでしょう? 嫌いなら無理にセックスすることありません。他を当たってください」
「俺様は嫌いなんて言ってねぇだろうが! ンなの、銃兎が俺にしか見せねぇところが見たかっただけだろ……いじめられた時のお前、すげぇ感じててエロくて……好きなんだよ。そういうプレイしてぇなら俺がしてやるから……他の男に抱かれたりすんじゃねぇよ」
「左馬刻……俺はな、いじめられるのが好きってワケじゃねぇ。でも、お前の声で言われると弱いんだよ俺。絆されちまうんだ、おかしいだろ。変だって思うか?」
「! 銃兎お前それって」
「何も言うな。とりあえず、ごめんなウサちゃんって言え。それから俺を甘やかせ」
「……なんだよ、ウサちゃんって呼ばれんの好きなのか?」
左馬刻が銃兎の腰を抱き寄せた。チュ、と目元にキスされる。
「……泣かせてごめんなウサちゃん」
「あんまり不安にさせんじゃねぇよ……」
「ん、ごめんな」
「……左馬刻のこと嫌いって言ったのは悪かった。さっき言ったことは全部撤回してやる。だから……もう少しで良いから、たまには……優しくして、ほしい」
「ベッドでウサちゃん愛してやる時は?」
「それは、……んん。お前の好きにすりゃ良いだろ」
「何されても良いって? ヤクザにンなこと言っちまって良いのかよ」
「左馬刻が俺のこと好きだって言うならな。俺のこと好きじゃなくなったら言えよ」
「ハッ、んな日は一生こねぇわ。銃兎が別れるって言っても別れねぇからな」
「ふふ、それは、もう充分理解したよ」
「……お前がそうやって笑うときの顔好きだわ。可愛いなやっぱり」
「あのなぁ、もうゲーム終わりだって」
「誰がゲームだって言った?」
「……これ以上お前のこと好きにさせてどうすんだよ」
ドキドキが具現化される。つまり、目に見える形となって、すっかり可視化できるのだという。そんな効果が溶けて消えても伝わる好きがあるのだと知った。
まだハートが目に見える形として存在していたら、あたたかな好きが溢れ出して止まらなくなっているだろう。甘くて時に苦くもなる恋は、溜まった時に身体を重ねるだけの関係だったら、一人で抱えるだけだったら、始末に困ってしまうだろうけれど。だが、もう一人きりで抱えることはない。この勝負は引き分けだ。お互いに、惚れたもん負け。