さんざん愛してくれ

「ゲホッ……すまねぇ……今日はできねぇんだ……。せめて、口でやれたらいいんだけど……何か入れると吐きそうになっちまって」
「んな状態でバカなこと言ってんじゃねーぞ」
「はは、……そうだな、お前に伝染しちまうかも……なあ、リビングの机」
「は……リビング? なんもねぇぞ。ウォーターサーバーか?」
「バカ、あんだろ、財布が。……とくべつに奢ってやるから、テキトーに取れよ。その金で嬢でも呼んで……そしたらスッキリできるだろ」
 最大の譲歩をして、笑ってやる。左馬刻も、これなら無料で欲も解消できて喜んでくれるだろう。理解あるセフレのつもりだよ、俺は。それなのに左馬刻がぎゅっと眉を寄せたから、どうしたんだ、と声に出して────ダメだ、もう意識が。
 
 
▷▷▷
 
 
 おでこが、やけにひんやりするなと思った。
「っとによぉ、テメェは一人で無理ばっかしやがって。……自分の身体壊したら元も子もねぇだろ、ウサ公」
 愛想はないくせに、ひどく優しい声がする。
 見知った声の主を確かめたくて目を開けると、思った通りの相手がいた。薄暗い部屋の中で、銃兎の好きな相手が、銃兎を見ている。ひんやりするのは、冷えピタの効果か。これを貼ってくれたのも、左馬刻なのか。
「目ぇ覚めたのか。体調、どうだ?」
 あぁ、俺は今夢を見ているのか。熱に浮かされて都合の良い幻を見てるんだな。銃兎はそう判断した。
 だってこれが現実のはずがない。こんな穏やかな顔を左馬刻が向けてくれるわけがない。だいたい、左馬刻は風俗に行ったんだろう。財布から取っていいって言ったから、遠慮なく、心置きなく抜きに行ったに決まってる。
 でも今は夢の中だから、左馬刻は俺の枕元に座って、文句一つ言わない。いい夢だな、左馬刻が見舞いに来てくれるなんて。
 せっかくいい夢を見られているのだから、たくさん浸っておこう。銃兎は気だるい身体を動かして、男に抱きついた。左馬刻は驚いていたが、抱きついたまま放してやらなかった。だってこれは俺の夢だから、俺の好きなように振る舞っていいだろ。
「じゅ、銃兎っ?」
「左馬刻……ぎゅーって、俺のこと、ぎゅーって、しろ! ……ぎゅって、して?」
「! ……チッ……おい、これで満足かよ」
 甘えて強請ると、銃兎の背におずおずと左馬刻の両手が回され、きつく抱きしめられた。熱で鈍磨された感覚の中、己を抱く男の腕のたくましさに、脳髄が蕩けそう。セックスの時以外で左馬刻に抱きしめられ、これは夢だと分かっていても、嬉しい。幸福感に酔ってしまいそうだ。

 しかし、気がついてしまった。左馬刻から、左馬刻のものとは違う香水の匂いがすることに。
 じわり、と銃兎の目に涙が浮かぶ。夢の中ですら、そんなのってないだろう。
「いやだ……! さまときお前……ずりぃ、そんなのずりぃだろっ。なんで……! もういい、いやだ離せっ」
「お、おい。ンだ急に泣き出しやがって! 暴れたら具合悪くなんだろうが!」
 左馬刻が逃げようとする銃兎を引き寄せる。そのせいで、女の────左馬刻に愛されたであろう女の香水がより強く鼻腔をつき、絶望に突き落とされる。
「だって、女のにおいがする……ッおまえ、女、抱いてきたんだろ! ……いやだ、やだ、そんなのずりぃっ」
「ずるいってなんだよ、テメェだろ俺様に女抱いてこいとか抜かしやがったのは!」
「うるせぇクソボケ! ……お、俺だって、ホントはお前にかわいがってもらいたかったんだ! 左馬刻が風邪ひいたら可哀想だから譲ったんだろ!」
「銃兎……」
「どこの店の女だよ……うらやましくて変になりそうだ。俺だって、さまときのセフレだろ…………ほんとは、わたしだって、風俗なんか行ってほしくありませんよ! 熱出てるのなんかどうでもいいから俺のからだ使ってほしかっ、ング」
 いやいやと男の腕の中で、聞き分けのない幼子のように訴える。左馬刻はそれ以上を言わせまいと銃兎の口を掌で塞いだ。
「お前もう喋んな。……調子悪いのに使わせろなんて言うわけねーだろうが。オナホの穴に突っ込んでるんじゃねぇんだぞ」
────じゃあもう、俺は用済みなのか?
 銃兎が言おうとしたことを察したのか「お前が元気になったら抱き潰してやるからよ。そこは覚悟しとけ」と口角を釣り上げて笑う。

「つーか俺様が女とセックスするくらい別に良いだろ。我慢できねぇのかセフレのウサちゃんは。随分と束縛してくるじゃねぇか。面倒なウサギだな」
 いじわるだ。夢の中でさえ、左馬刻はいじわるだ。銃兎は、むぅっと唇を尖らせる。
 左馬刻はいじわるで、……いじわるだけど、正論だった。銃兎はセフレだから、左馬刻が誰を抱こうと銃兎に文句を言う理由はない。
 でも、それでも、我が儘だけど嫌だ。束縛してきて面倒だって、左馬刻の言う通りで、反論のしようがないけど、嫌なものは嫌なんだ。
「……他の相手なんて可愛がってほしくない。俺以外、見ないでくれよ……ワガママ言って、ごめん……でも、他の女、抱いてほしくない……! 俺もお前にしか抱かれたくねぇから、左馬刻……さまときっ」
 すきだ。お前のことが好き。さまときだけ。さまときが一番なんだ。一番すき。大好き。左馬刻が大好きだから。左馬刻、俺、ワガママだけど嫌いにならないで。ここにいて。
 切実に形作られて、溢れ落ちてゆく想いは、現実世界だったら左馬刻に見せたりしない。弱さと同義で、絶対に堰き止めていたはずだ。今は夢だから、夢の中でくらい甘えさせてほしくて、熱に浮かされながら幾度も「好き」を繰り返す。左馬刻は平熱だろうに自分の額に手をやると天を仰いだ。

「あ゙ーーくっそ……んだよ、何なんだこれ。こんなん反則だろクソが……可愛いすぎんだよ。マジで可愛いすぎてやべぇだろ可愛いの暴行罪だわ俺様の腕の中で死ぬまで禁固刑にすんぞチクショウ……」
「左馬刻……? 暴行されたのか? 痛てぇの?」
「ああ、ウサちゃんにやられたみてぇだ」
「ウサギに!? ウサギじゃしょっぴけねぇ……さすがにムリだな……」
 左馬刻は汗のせいで普段より寝乱れている銃兎の前髪をそっと指先で払う。
「……女なんて抱いてねぇよ。お前以外、可愛がってねぇ」
「……本当か?」
「俺様がそう言ってんだから信じろや……ま、香水は仕事で付いたんじゃねぇか? 店の嬢と会ってたからそのせいで移ったんだろ」
 ────左馬刻は誰も可愛がってない。俺しか、可愛がったりしない。
 その事実に銃兎は浮かれた。ああ。嬉しいな。夢の中では、左馬刻はこんなに優しいことを言ってくれるのか。抱きつけば、抱きしめ返してくれる。それだけでこんなに嬉しい。

「……左馬刻が、俺の隣で、セックスもしないで、ただ一緒にいてくれるなんて、セフレになる前みてぇだな。ほんとはずっとこのままが良い。左馬刻が俺の看病してくれて、優しく話しかけてくれるなら、その方がいい……俺が元に戻ったら、この夢も覚めて、またいつものセフレに戻っちまうんだろ……?」
「夢じゃねぇよ。……夢じゃねェって、俺が証明してやる。だからンな寂しいこと言うんじゃねぇ。ちゃんと寝て風邪治せ」
「いやだ……だって寝たら……お前、いなくなっちまうだろ。まだ、左馬刻から好きって聞いてねぇ。言ってくれよ好きって。早く言え。夢の中くらいサービスしてくれよ。今だけは俺の左馬刻様だろ……好きって言えよ、なあ、俺のこと好きって」
「はぁ!? あのなぁ銃兎」
「やだっ。好きって言ってくれっつってんだよバカとき! そんでキスしろ!」
「さりげなく要望増えたじゃねぇか! ああもう、クソっ……いいか? 熱で頭イカれてんだよお前。余計なお喋りは終わりだ、さっさと寝ちまえ! ほら、もうおやすみなさいしろや」
 言えよ、と何度もお願いしたのに(命令ともいう)左馬刻は「好き」と一度も言ってくれず、言ってくれないせいで駄々っ子と化した銃兎を無理やり布団に押し込んだ。粗雑な対応ではあるのだが銃兎を見下ろす左馬刻の表情は穏やかで、紅に碧の光を宿す双眸には、銃兎に対する温情があった。夢だと分かっている。分かっているけれど愛情めいたものを感知してしまって、視界が潤み、上手く呼吸が出来なくなった。

「……まぁた泣いてんのかよ。しょうがねぇウサちゃんだな……ン? ほら、なにが悲しいんだよ」
「うぅ、……さまとき……おれと一緒に寝てほしい…」
「寂しがりウサちゃんかよ。ンとに銃兎は俺様がいねぇとダメになっちまうなぁ……?」
 左馬刻が布団を捲って、寝転んでくれた。「好き」と口に出してくれることはなかったけれど、銃兎は大人しく目を閉じた。それは銃兎が左馬刻からの「好き」を引き出すことを諦めた結果ではなかった。むしろ、満足してしまったのだ。
 決して好きとは言わないくせして、熱で汗ばんだ銃兎の背中をポンポンとゆっくり叩いてくれる左馬刻からは「お前が好きだ」という声にならない言葉が、とても、たくさん伝わってきたから。
 
 
***
 
 
 どうして左馬刻が俺の寝室のベッドの、しかも俺の隣で一緒に寝てるんだ?
 目覚めた銃兎は早々に頭を悩ませる。かにもかくにも、起こした方が良いだろう。
「おい左馬刻、起きろ」
 すやすやと寝息を立てる左馬刻を揺すると、低く呻いた後、ゆっくりと目を開けた。
「……銃兎ォ。熱はどうなんだ?」
 問われ、まだ眠気を引き摺る頭で銃兎は唐突に思い出した。あぁそうだ。俺は昨日、風邪を引いて熱出して、寝込んで────
「うぉあっ!」
 素っ頓狂な声が出た。銃兎のおでこに貼ってあった冷えピタをべりっと剥がした左馬刻が、唐突に、自分のおでこをくっつけてきたのだ。
 え、あっ、なっ、なっ、顔っ、顔!近ぇんだよ!なんなんだお前!と銃兎はパニックになるがパニックになりすぎて全く言葉が出てこない。
「……もう熱はなさそうだな。39度近い熱から一晩で全快するたァ、中々やるじゃねぇか」
 左馬刻は銃兎の動揺など知ってか知らずか平然と話をしてくる、が。
 え……? っていうか、そもそもなんで、俺の隣で寝てたんだこいつ。っていうかこの冷えピタ、左馬刻が貼ってくれたのか。昨日からここにいて、看病、してくれた。ってことは、もしかして、昨日の、夢、もしかして、俺が夢だと思ってただけで、ぜんぶ夢じゃなくて、アレは、
「まっ、待て……! 左馬刻、俺、昨日、変なこと、言ってなかったか……?」
「……アァ? 変なこと?」
「……その、俺を可愛がれとか、好きとか、一番だいすきとか、ぎゅってしろ……とか……」
 左馬刻は銃兎にチラリと視線を投げると「知らねぇわンなこと」。ぷい、とそっぽを向いた。
 よかった。あれはやっぱり夢だったんだ。あんな子供みたいに甘えたのが夢でよかった。銃兎は安堵したのだが、安堵できたのはほんの一瞬だった。
 そっぽを向いている左馬刻の耳が真っ赤になっていることに気づいてしまった。林檎のように染まった耳朶に、銃兎は確信する。これはまずい。日常に戻す一手を打たなければ、左馬刻を困らせてしまうだろう。
「……すまない、変なことを聞かせたみたいだな。アレはその、たまにはお前を揶揄ってやろうと思って……ははは、あんなの全部嘘だから安心してく……ッ!?」
 ギシッ、と音が鳴りそうなくらいシーツに手首を縫い付けられ、左馬刻が乗り上げてきた。銃兎を見下ろす左馬刻の表情はサディスティックで、紅に碧の光を宿す双眸には、銃兎に対する憤りが見えた。
「……銃兎よォ。この俺様が振り回されっぱなしで済むとでも思ったか?」
「はぁ!? お、おい左馬刻、離せ……! 俺シャワー浴びてねぇ! 汗くさいだろっ」
「俺様に逆らえるくらい元気になったんだから良いよなァ。つーことで今から夢じゃねぇこと証明するわ。……なんだっけか? 気絶するほど抱き潰しながら好きって言えば良いんだよなァ? それしてほしいって言ってたもんな銃兎。安心しろ俺様が叶えてやンよ今すぐ」
「言ってねぇ! 全然そんなこと言ってねぇ! 寝ぼけてんのか!」
「とっくに起きてんだよほら」
「チンコの話じゃねぇよクソボケ!」
「もう良いから口だけ開けとけ」
「さま、…ん、ン……ふ♡」
 ああ、やっぱり全部夢じゃなかったのか。夢じゃなかったことは恥ずかしいけど、夢じゃなくて良かった。銃兎を優しく甘やかしてくれた男も、今こうして噛みつくようにキスしてくれる男も、全部、都合のいい幻なんかじゃない。