「ひとり、おれにくれねぇ?」
俺で良けりゃ、なんでもしてやるから。俺なんかじゃ、てめぇを癒せやしねぇかもしれねぇけど、それでも、俺にできる限りで、大事にするから。なァよろずや。だめか……?
言い募る自分の声がどこか遠くに聞こえていた。ぐずぐずに溶けたような懇願が、耳の中に水が入った時みてぇに、くぐもった音で響く。
目の前には、三人並んで立っている万事屋がいた。三人だ。俺の前に三人も、いる。なんて贅沢なんだろう。三人も独り占めするなんざ、贅沢すぎる。手を伸ばして真ん中のやつの手首を握れば、とくとくと流れる脈を指先で感じた。体温が温い。紅が揺らめく瞳の中に、俺の顔が映ってはくれないだろうか。思いはするが、こんな状況で瞳をまっすぐ覗くようになんて見られない。今だけで構わねぇし、一欠片だったとしてもいいから、俺の存在が万事屋の心の中に入っていければ良いのにと、思う。脳味噌はアルコールでバカになっている。本当は、酒なんか関係なくとっくにバカになってるんだろう。こいつのせいだ。全部こいつのせい。思考は見事にとっ散らかっていた。ぽつりぽつり、言いたいことが浮かんでは消えてを繰り返す。
頭が重い。身体が前に傾ぐ。重力に逆らうことすら億劫だ。そのままの勢いで目の前の肩に額を預けた。初めて触れた筈なのに馴染む体温。身体の力が一気に抜ける。
「……あのな、土方」
躊躇うような、怒っているような声色だった。急にこんなことをされて怒っているんだろうか。出来れば怒らないでほしい。俺は喧嘩してやりたいわけじゃねェんだよ。俺とタイマンで殴り合えば気分爽快、万事屋の気晴らしになるって話なら望むところだが、それはそれで心が痛い。俺は万事屋に殴られたいわけじゃないからだ。
もたれている体勢の所為で、万事屋が口を開こうとする僅かな気配と、零れる息遣いも、しっかりと聴覚が拾ってしまう。だめだ。拒絶される。聞きたくねぇけど、耳を塞ぐことができない。俺の手は、万事屋の両腕の下で押さえつけられ動かせない。諦めて、力を抜く。
「ん、……あんだよ」
「いや、なんつーか……一人で良いの?」
「へ?」
「三人もいるんだろ? もっと欲しがってみねぇの?」
「……みねぇよ」
三人いるなら一人よこせと言っている時点でかなりのチンピラ発言だし強欲だと思うんだが、どうやら三人の万事屋は不服らしい。
「良いんだよ、ひとりで。じゅーぶんだ」
かぶき町の坂田銀時といえば随分と有名人だ。吉原では救世主様なんて名誉に呼ばれているのだって人伝に聞いていた。江戸を救ったのだって、大きな功労だろう。本当に、普段はだらしねぇが、いざという時は煌めく奴だ。出会った頃から変わらない。大事なものを護る為に奮う剣は常軌を逸して強く、魂は決して折れることがない。万事屋の二人と一匹、それに階下のスナックの奴らを大切にしている。それだけじゃない。コイツは身内だけでなく誰からも慕われている。
──そんな奴を。
──そんな奴を、俺が独り占めするのは悪いだろう。そんな不毛な望み、叶えたいとも思わない。ただ、三人いるなら一人くらい俺の人生に付き合わせたっていいだろう。第一、三人もいたってマダオはマダオだ。万事屋を再開したら平社員に格下げされたとも聞いたところだ。さっきは締まらねぇ野郎だと笑ってやったが、社長じゃねぇなら一人くらい俺に付き合ってくれよ。俺は肩書きなんか気にしねェし。
「なあ、くれよ。よろずや」
首筋に頭を摺り寄せて懇願する。バカみたいだが真剣だった。連日の大工仕事で日に焼けて傷んだのか、くるくるしてる銀髪の毛先がぱさぱさと小さく乾いた音を立てる。酒の力は偉大だ。こんな醜態、素面だったら絶対に晒せやしない。
「……分かった。やるよ、一人」
だからお前も俺達と一緒に江戸で、今もこれから先もきっちり生きてくれよ。無茶して、勝手におっ死んだりするんじゃねーぞ?
ガキに言い聞かせるように求められて、少し笑った。コイツの時折ふと遠くを見るような瞳の奥を、凪いだ表情を、俺が少しでも変えることができるんだろうか。……俺が生きているだけで? それはまた随分と荷が重くなった気がして、真面目に向き合おうとすると不意に笑えてきたんだ。
──ああ、好きだ。好きだ。好き。俺は万事屋が好きだ。
三人ぶんは無理でも、一人くらいなら。一人なのか、三分の一なのか分からないが、全員を丸々独り占めにするのなんか絶対にしたくない。一人でいい。一人でも俺が貰えたら大事にするから。なんだってする。約束も守ろう。守れる限りで、だが。
万事屋は俺に「生きろ」と言うが、実際のところ何度死にかけたか分からない命だ。あの時、万事屋の背中を押したあの瞬間、俺は自分が生きようとしてたわけじゃなかったと思う。万事屋の坂田銀時に、恩でも借りでも、募りに募った想いをぶつけて、伝えたかったんだろう。どこで再会したってロクに会話を交わせたモンじゃなかった上に、あの時は必死すぎて細々したことなんかは覚えていないが。
それでも俺は、俺達の生きる真選組は今、こうして江戸にある。あの時、すまいるで祭り騒ぎのような喧騒の中、万事屋から副長と二度も呼びかけられた時。不思議と懐かしいような、心機が一転するような、そんな気分にさせられた。
江戸は今もこうしてここにある。だからこそ、俺はやはり坂田銀時の沈んだ顔を見たくないと思う。高杉晋助の最期に関して仔細な始終が語られずとも、そこにいた者は言葉なくして理解していた。高杉と、それからアイツがどんな想いでそこに立っていたのかなんて底が計り知れない。その後の詳細な話も、奴の骸がどうなったのかも、そのどれもが俺たちにとって『管轄外』の話で、真選組の領分には届かない。まして平和を取り戻した今となっては、殊更に調べる術がなかった。コイツは何かしっているのだろうか。今、目の前にいるコイツに尋ねてみようとは思わない。副長が聞いたところで揶揄われてはぐらかされるだけだ。土方十四郎としてなら聞ける理由がない。それでも良い。過去に囚われ続けてこれからを生きていく奴なんか、この江戸にはいない。明日の、未来に向かって前を向けるなら。万事屋が俺を求めてくれるなら、構わなかった。一人くれると言ってくれたのが嬉しくて、覚えず頬が緩んだ。
「ほんと、か?」
「ああ。その代わり、銀時って呼んでみろよ……そのまま、抱きついて」
低く甘い声。酒で怠くなっていた筈の腕を上げ、誘われるように万事屋の背に腕を回す。指先に力を込めると、広背筋が跳ね返すみたいにしなやかで、弾力があるのが分かる。コイツはいつの間に鍛えているのか、男としては羨ましいくらい、惚れ惚れする肉体を持っている。耳元で息を吹きかけられ、びくっと震えてしまう。
なあ、銀時。そんな簡単なことでいいのか。呼んでもいいのか、俺が。覚悟して瞳を覗きこめば闇の中でとろけるような光を宿していて、心臓が強い拍動を生んだ。身体がムズムズと疼いてくるのが分かる。
「銀時、ぜんぶやる。すきにして……身体が熱いんだ。さわって、俺のこと、かわいがって」
言い終わる前に抱きしめ返された。銀時の匂いがする。少し汗の香りと、丁度いい具合に甘い匂いがして離れられない。匂いにすら惹きつけられる。
力一杯に締め付けるような抱擁をされて、肋骨が軋んで悲鳴を上げる。この痛みすら愛おしい。ようやく手に入れた。コイツは俺のものになった。嬉しくて幸せで、体内から押し出されるようにして笑い混じりの吐息が漏れた。絡んだ眼差しは甘さだけでなく焦げつくような熱情を孕んでいる。その熱がじわじわとこちらへも伝染していく。ああ、こいつに抱かれたい。キスしたい。キスしてほしい。相反する衝動のまま、アルコールで赤く色づいた唇を食んだのは、同時だった。上等な日本酒に浸された舌は、何度も夢想していたよりずっと柔らかくて熱かった。
♦ ♦ ♦
「ッ、な……!」
まどろみから目を覚ました時、隣に坂田銀時がいた。坂田銀時、つまり万事屋は鼻先も触れそうなくらい近くで寝ていて、俺は一気に目が覚めた。普段から寝起きは悪くない方だが、いつも以上だ。これが呑気に寝ていられるか。俺の目はこれでもかというほどカッ開いている。恐らく瞳孔も。そしてそのままロクに動けなくなってしまった。思考を巡らせる。……どういうことだこれは?
さらりとしたシーツの感触が太腿から爪先ににあって、尻にはない。『尻にはない』ってことは、とりあえず下着こそ履いているが、ほぼ裸だ。屯所での就寝時は着流しを着ている。近藤さんじゃあるまいし、酔って全裸になってモザイクと仲良くする趣味はない。
恐る恐る目線のみを下げていく。万事屋もイチゴ柄のトランクスを履いていたが、他は何も着ていなかった。ほぼ裸だ。昨晩、こいつと俺の間に何があった? 俺は酔っ払って、何か警察として良からぬコトをしてしまったのか。何かっつーか、もしかして……もしかするとナニを……?
起きたばかりで動きの鈍い脳をフル回転させるものの、この事態を収拾する解決策はからっきし出てこなかった。それどころか考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。二日酔いの症状だ。薬は、見たところ連れ込み宿のようだから常備されてる訳がないだろう。とりあえず、コイツが目覚める前に起きねぇと。
こっそり身を起こす俺を、いつの間にか濃紅の瞳が見つめていた。一気に硬直する。暫くぼんやりとしていたが、やがて焦点を結んだその目が、俺の姿を認めて柔らかく緩んでいく。頬を仄かに上気させ微笑むその顔は一種の凶器だ。傾城の美女だって堕とせそうなくらいのフェロモンを直に感じてしまい、二日酔いとは別の意味でくらっとした。
「おはよう、土方くん」
「お、おう……」
「身体は平気か? だいぶ飲んでたからな……水だったら冷蔵庫にあるぜ」
「取ってきてやるから待ってろ」。
万事屋は危なげなく身を起こすと、スタスタと歩き出す。万事屋の身体は無事らしいが、背中に引っ掻かれたような真新しい痕跡があってドキリと心臓が跳ねた。アレはなんだ。アレはまさか、俺がやっちまったのか!? どうにも言い訳しようがない。酔っ払ってアイツを裸にした上、背中に傷をつけちまったなんて。やった相手は斬り捨られてもおかしくない、重大な仕打ちをしてしまった。
戻ってきた万事屋から冷えたペットボトルを渡されて、喉が渇いていたことを自覚した。心なしか喉に引っかかるような違和感もある。空調は切られているが、よほど乾燥でもしたんだろうか。悪いな、と言った自分の声がいつもより掠れている。万事屋は背中に傷をつけた俺に対して怒っていないらしく、文句の一つも言ってこない。
「ん? どうしたの」
「あ、いや……なんでもねぇ」
ぎこちない動きでペットボトルを取り、キャップを開けようと捻った。……開かない。というかそもそも筋肉に力が入る感覚がない。もう一度、今度はしばらく負荷をかけてみたものの、一向に開く気配がない。目の前で見ている万事屋から男のくせに非力な奴だと思われそうで焦る。なんだこれ。クソ、なんだこれ。ラベルに印刷された電話番号にクレームを入れてやりたい。万事屋にバカにされるのは絶対に嫌だ。チラと見上げれば目が合う。万事屋は天パをくしゃりとやってから、
「あー……土方くん」
「な、なんでもねぇんだ! これはその、なんつーか……」
「力、入んねェんだろ。んなショボくれた顔しなくて大丈夫だから、貸してみろって」
受け取った万事屋の手がキャップを捻れば、カチッと軽い音を立ててあっけなく封が開いた。渡されたものの少し気まずい。
「す、すまねェ……面倒をかけた」
「気にすんな。これくらいさせてくんない? 俺が無理させたんだから」
「……え?」
そう言って、万事屋は心底嬉しそうに笑う。俺の心臓がドクドクと矢鱈に拍動を刻んだ。無理させたってなんだ。暴れる鼓動を無言で押し隠す。落ち着け。いや落ち着けるか。背中は知らぬ間にじっとりと湿っている。無心で勢いよく飲んだせいで、ペットボトルの中身はどんどん減っていく。もう半分以下になった。蓋をしたは良いが、始末に困る。
「昨日の話だけどよ、言い忘れたことがあったんだ」
するりと手が俺の顔を包む。自然にその掌へと顔を擦りつけていた。……おい。俺は今、何をした?
こんな動作をされたのは初めての筈なのにしっくり馴染む感触と体温。混乱が深まっていく。広く丈夫な親指に、目の下から頬を撫でるようにされた。知らず肩が震える。
昨晩の朧げな記憶が、光景が、唐突に脳裏へ蘇った。俺はこの距離にいる万事屋を知っている。手を伸ばした。俺の方から。……手を伸ばしたのは、思わずだったが。
「よろずやが三人いるって、お前は言ってたけどさ」
そんなトチ狂った発言をしたのが誰なのかも、俺は知っている。酒で視界がブレてたんだよ、あの時は。今なら分かる。ちゃんと分かるから、だからこれ以上は喋るな。
「見ての通り、俺は一人しかいねぇんだよ。つーか三人もいたら土方くんの取り合いになるし? 夜通し喧嘩することになるじゃねーか」
……三人の銀時に取り囲まれ、取り合われている図を想像した。考えるだけで疲れそうでウンザリする。昨日の俺はその辺の認識までフワフワしててよく分かってなかったが、三人いたら絶対うるせェし面倒くせェし喧嘩されたところで三人とも全員不死身みてェなモンだから決着がつく気がしない。俺の考えていることを察したのか、銀時は照れくさそうに苦笑した。
「だから、俺一人で我慢してくんね?」
とろりと柔く溶けるような眼差しで乞い願う。その奥底には隠しきれない欲が滲んでいた。煌々と燃える紅の瞳から視線が逸らせない。頬を包んでいた手のひらが耳へと移っていく。耳たぶの形を指先で擽られた途端、そこから発した電流のような快楽が一気に背筋を下って行った。終着点の尾骶骨の辺りが、びりびりと痺れている。ペットボトルは手から滑り落ちて床に転がった。
「っ、ぁ」
──なんだ、これ。
今まで全く意識したことのなかった場所が、銀時の指で性感帯へと変えられてしまう。自分の身体なのに、制御が効かない。
人から与えられる快感がここまで暴力的なことを、この歳になって初めて知った。ただ触れて撫でられているだけだ。理解していても、勝手に息が上がる。心臓の音が痛いくらいに鼓膜を叩く。耳たぶの固さを確かめるように摘まれるともうダメだった。力がふにゃりと抜ける。ベッドに押し倒されて、それだけの動作で発情しそうだ。
「嫌だったら全力で抵抗しな」
「~~っ」
力なく伏せられた顔を持ち上げ、コツンと額を合わせてくる。鼻先を戯れるように擦り付けられた。甘えるようなその仕草に、胸の内に甘い疼きが走る。十四郎、と囁かれた。唇を優しくなぞられる。
「ぎん、とき……」
「お前がほしいよ、土方。土方くんも一人しかいねェけどさ……一人しかいないお前のこと、俺がもらっていい?」
今更なことを聞くんじゃねーよ。目の前にいる男の一挙手一投足に身体が反応し、五感が研ぎ澄まされ、心の底から欲しいと切望している。吐息交じりの肯定は合わせた唇で重なって溶けた。