お前と会うまで知らなかったことばかりだ

 早く海に帰りてぇな。
 いつもいつも、変わり映えのしない部屋の景色に辟易していた。透明な水槽に、本物ではあるのだが自然ではない海藻と、地面の砂一粒一粒。呼吸に困ることはなかったが天井には蓋をされており、照明のランプは青白いばかりで、月や太陽の揺らめく光とは程遠いのだ。
 つまらない。しかしこんな稚魚の身体で海に戻ったところで生き延びる可能性が低いことくらい分かる。水槽の中とは違う。まだ海の中を放蕩しているだけの卵だった頃、そこからでも海の弱肉強食を目の当たりにしてきた。難を逃れたのは、一粒の小さな卵として水流に呑まれるばかりであった己を救い、保護した男がいたからである。数メートル四方の水槽に弱肉強食の理は存在せず、むしろ自分以外は誰も居なかった。水底に沈む白い貝殻よりも小さい手の平を見つめて、思わず吐いた溜息の泡が、白く上って消えていく。
 四角い水槽で、自分を拾った男によって生かされる日々。
退屈で、窮屈で、眠くなるほど安全だった。ここで生きるのが最も生存率が高いと理解している。だから人魚は今日も水槽の中で眠り、目覚め、いつもの男の手が蓋を外すのを待っている。
「左馬刻、小官は海上の任務に行かなければならなくなった。ここをしばらく留守にするからな」
 小さな魚が頭上から降ってくるので捕まえて、齧って胃の中に納める。存在を秘匿されているせいか、毎晩毎朝いつも変わらない景色と世話人の顔。まだ卵だった左馬刻を冷たい潮の流れから掬った世話人の名は、毒島メイソン理鶯という。

 人魚というのは賢いものだ。身体は小さくても左馬刻には理鶯の言っていることが全て理解できたし、人間とは違って魔法が使える。
 理鶯は人間だが、注意しないと判別出来ないほど小さな小さな人魚の卵を海中で拾い、適切な管理下の元で左馬刻を孵らせてみせた風変わりな人間だった。その理鶯が居なくなる。つまり世話をしてくれる者が居なくなるということだ。自分は、ここにはいられない。一人で生きて行くのだ。恨み言を言うつもりはなかった。むしろ、孵してくれたことに礼を言いたいくらいだ。
 これからは狭い水槽を飛び出し、這ってでも海に帰らなくては飢えて死んでしまうだろう。
 幸い、現在は夜で敵にも見つかりにくい。左馬刻も人魚なので魔法が使えた。今はまだ微々たる魔力であったが、いずれは身体の成長と共に魔力も成長するだろう。そうなれば海で簡単に捕食されて終わり、なんてことは起こらない。
 魔力の成長具合を確かめるように放った氷の魔法は、水槽の内側をほんの少しだけ凍りつかせた。理鶯の前でするのは初めてだったので、彼は海のように青い色の瞳を細めて、穏やかに笑う。

「……凄いな。左馬刻は魔法が使えるのか」
「理鶯? あの、お邪魔します……」
「よく来てくれた、銃兎。遠慮せず中に入ってくれ」
 水槽越しに見ていた男が、ここへ客人を招くのは初めての出来事だった。
 日が暮れた現在の空と同じように黒い色をした正装をきっちり身につけている男は眼鏡越しにも分かるくらい神経質な目をしていたが、左馬刻を見て目を丸くする。

「……これは……やはり、冗談ではなかったんですね…」
「軍人は嘘をつかない。エイプリルフールを除いてな」

 左馬刻の存在は秘匿されているのだ。他の人間がやってくるのは予想外だった。街から離れたところに構えられたこの家に、誰も来ない、はずだった。波音が聞こえるから、ここは海が近いだろう。理鶯が居なくなるのであれば、自分は礼を言って海に帰るつもりであった。いつか来るその日のために魔法の練習だってしていたのだ。
 理鶯の代わりに真っ黒な男がやってくるなんていうのは流石に予想外で、左馬刻は水槽の向こう側で緊張した面持ちをしている人間をじっと見上げた。
「左馬刻、初めまして。入間銃兎です。以前から、貴方の話は理鶯から聞いていたんですよ」
「左馬刻、明日からは銃兎が小官に代わって面倒を見るからな」
「ちょっと理鶯! 私、貴方と違って器用じゃありませんし……自分の世話するだけで精一杯なんですからね」
「でもここに来てくれただろう。それに左馬刻は稚魚とはいえ人魚だし、赤子とは違う。夜泣きをしたりもしないし、見た目こそ小さいが、既にこちらの言葉を理解して、コミュニケーションを取ることだってできる。そうだろう、左馬刻」
「………」
 なんでお前が自慢げなんだよ、と思いつつ尾びれで水槽の壁をぴしぱし叩いて返事してやった。
「左馬刻……本当に言葉が分かるんですか?」
 ぴしぱし。
「銃兎が気に入らないのであれば、帰っても構わない。左馬刻は今から海へ帰すことになるだろうな」
「はぁ!? こんなに小さな子を……!?」
「船上に水槽を持っていくことは出来ない。小官が世話できない以上、致し方ないだろう」
「…………」
「銃兎。左馬刻が海に帰るまでの間、サポートを頼みたい」
「はぁ……仕方ありませんね。でも理鶯みたいに上手く面倒見れるかどうか分かりません。もしこんな綺麗なもの、死なせてしまったら」
 今、綺麗と言ったか。初めて言われたな。
「案ずるな。水槽を綺麗にして、水質管理に注意して、食糧を与えれば大丈夫だ。留守にはするが陸にいる貴殿と連絡を取ることも可能だ」
「……分かりました。ええっと、左馬刻……理鶯とは勝手が違うかもしれませんが、お手柔らかにお願いします」
 左馬刻が海に帰るためにサポートをする存在が、理鶯の他にもう一人できた。左馬刻は今すぐ海に帰るのをやめた。まだ稚魚の身体で海に帰るより、ここにいる方が生存率は上がるし────もう少しこの男を眺めるのもいいかと思ったのだ。
 黙り込んでいる左馬刻をよそに、銃兎は理鶯に習いながら左馬刻の水槽を綺麗にし始めた。左馬刻のテリトリーに入ってきた細い指に噛みついてやろうかと思ったが、真面目に水槽の硝子を擦って浮遊物を掬い上げる姿を見ているとそんな気もなくなり、水槽の隅でじっと見つめた。
 赤い革手袋を外した銃兎の指は、理鶯の厚みのある手よりもすんなりと細く、そして白かった。理鶯より頼りないようにも見えるが、左馬刻に細心の注意を払おうとしているのは分かる。これからはこの手が水槽の蓋を開くのだろうか。左馬刻が大きくなるまで、毎日。
 
 
◯ ◯ ◯
 
 
「おはようございます、左馬刻。ご飯は何を食べるんでしょう? 魚を毎日あげればいいんですか……? 私、釣りもしたことありませんし、潜って魚を獲ったこともありませんので、街のスーパーで魚を買ってきました」
 言いながら銃兎はキッチンに向かい、なぜか細切れ状態になっているアジの切身を水槽の中にそっと落とした。
 理鶯がくれるのは生きた獲物ばかりだったので左馬刻は水中に降ってくるアジの小間切れに驚いた。なんだこれ。人間の食う魚か。ぴらぴらしてるし俺様はこんなもん見たことねぇぞ。
 手を付けようとしない左馬刻を困ったように見つめ、銃兎は「アジのタタキは好きじゃねぇのか……?」とズレたことを言う。小間切れは『タタキ』という名前らしい。
「左馬刻の食べたいものがあれば教えてくれ。でもまだ小さいし、水の中じゃ喋れねぇよな……」
 独り言を言いながら、銃兎がまたキッチンに消えていく。暫くガチャガチャと音がしていたかと思えば、焦げたような臭い。「うわっやべぇ」「あちっ」とか何とか聞こえる。
 ……やがてキッチンから戻ってきた銃兎は焼けた、いや些か焼けすぎているように見えるアジの開きを持ってきた。頭と尻尾など完全に黒く焦げている。
「アジの干物だ。こっちの方が好きだったりするか?」
(こいつバカなんじゃねぇか……?)
 左馬刻は心からそう思った。干物って、人魚がいちいち魚干して焼いて食うわけねぇだろうが。つーか干すとこねぇし。
 人魚のことを何も知らない銃兎が焼いたアジの身を不器用にほぐして水槽に入れようとするので、左馬刻は目の前でふよふよ揺れるアジのタタキを仕方なく捕まえて口に入れた。咀嚼して飲み込むところまで見せてやる。
「そうか……! やっぱり刺身が良いんだな」
 ホッとしたように笑った男はほぐしたアジを自分で食べている。魚とか久しぶりだな、と呟いた。
「私は人魚のことは詳しく分からないので、今みたいに教えてくれると助かります」
 でも左馬刻を必ず海に帰してやるからな。
 頼りないことを言いながらもその表情と言葉に嘘がなさそうだったので、左馬刻は『水槽脱走計画』実行を延期することにした。断じてここにいたいわけじゃない。だが、もう少し身体が成長するまで我慢した方が得策だと思った。果てのない退屈は続くし、狭い水槽で不自由なままだ。しかし、左馬刻を海に帰すと銃兎が嘘のない瞳でまっすぐ見てくるのなら、今すぐ危険を冒す必要はないだろう。
「それにしても左馬刻は本当に綺麗ですね。その昔、人魚に魅入られて身を滅ぼした人間がいたのも理解できますよ」
「………」
 自分が綺麗だと言われてもピンとこなかった。しかし銃兎が嬉しそうなので、あと少しだけ、銃兎のための観賞魚のようにここで寝起きして、海に帰ってやろう。
 人間と人魚の寿命を比べればこんなのはどうせ短い時間だけだ。食事を運ぶ人間の顔なんてすぐに忘れる。成長したら不自由な水槽ではなく、広大な海で自由を謳歌するのだ。
「私、この後は職場に向かわないといけないんですが、必ず戻ってくるので……留守番できますよね?」
 ぴし、ぱし。昨日と同じように尾びれで返事してやるとクスクス笑う。
「では留守は頼みましたよ、左馬刻」
 そんな風に言われるのも初めてだった。任されたら、やはり水槽を脱走して野垂れ死ぬわけにはいくまい。
 何だか照れくさくて左馬刻は岩陰に身を隠した。水草の揺らぎを眺めながら目を閉じる。銃兎は冷たそうな見た目だが、その割に世話焼きで、ツッコミどころがあって面白いやつかもしれない。やっぱり暫くはここに居てやってもいい。
 左馬刻は眠っている時、よく海の夢を見ていた。
 だが、その日の夢は違っていた。夢の景色はすぐに忘れてしまったけれど、海の夢ではなかったのだ。自分は何故か澄んだ海ではなく澄んだ空の下で陸を歩いていて、誰かが隣にいたような。
 
 
◯ ◯ ◯ ◯ ◯
 
 

「銃兎ぉ」
 晴れた朝の太陽の眩しさ。カモメ達の声や秋の澄んだ空気の渴きを知って、随分と経つ。狭い水槽で無為に過ごすばかりだと思っていたが、左馬刻の予想は大きく外れた。
 なんと、銃兎が理鶯から調達してきたという変身薬により一時的に人の身体を得て、左馬刻の行動範囲は比べ物にならないほどに拡大したのである。

 銃兎と二人で暮らす家の中を自由に歩き回り、今では街にだって出かけられる。この場所は横浜と言い、県有数の繁華街だ。人間になったばかりの頃は歩くどころか立ち上がるのも儘ならなかったが、慣れてしまえばどうということもない。
 四角い水槽の中で過ごす退屈が未知の刺激に溢れたものに変わり、左馬刻の日常は鮮やかに彩られた。あらゆる陸の知識を吸収し、尾びれではなく両足で地を駆ける自由を得たのである。

「おい銃兎」
 優秀かつ仕事の出来る警察官をしているらしい銃兎は、プライベートになるとスイッチが切れてポンコツになってしまうようだった。今もベッドで眠ったまま、左馬刻が呼んでも全く反応しない。
 とはいえ、起きている時の銃兎は左馬刻のサポート役を全うしていた。業務時間以外はいつだって左馬刻と共にいて、出かける時は左馬刻から常に目を離さないようにしている。食事は刺身だけではなくなったし、食べ物だけでなく、左馬刻が欲しがったものはできるだけ買い与え、街にも積極的に連れ出した。

 いつか左馬刻が海に帰っても、たまには陸のことを思い出してくれよ。
 銃兎は左馬刻に度々そのようなことを言った。左馬刻は、その度にぷうっと丸い頬を膨らませたり、素行悪く舌打ちしたり、とにかく不満を露わにした。何にムカついているのか分からないし、荒れた波みたいに揉みくちゃにされる感情は言語化が難しい。

 今になって思えば、あっさりこの手を離そうとしていた銃兎の淡白さが腹立たしかったんだろう。
 
左馬刻の見た目は紛れもなく幼い少年であったが、精神は見た目に反してしっかりと成熟している。故に、自分のつがいを見定めることに抵抗はなかった。左馬刻はごく自然に、銃兎と共にいたいと思うようになっていたから。
ずっと一緒にいたい。銃兎を俺様のつがいにするんだ。
 一度そう決めたからには、海に帰ること以上に優先されるべき目標となった。銃兎に求愛して誓いを乞う。自分と生きてくれるならば、このまま陸で過ごしても構わなかった。左馬刻が銃兎をつがいにすると言うと、銃兎は困った顔をして笑う。
『どこで覚えてきたんだ?』
『俺様はテメェより歳上なんだ。そんくらい知ってるに決まってんだろ』
『……そう言われてもな』
 銃兎はイマイチ分かっていないらしいが、実際その通りなのだった。卵の状態で海を漂っている間も左馬刻は意識があったし、外の世界が見えていた。人魚の孵化というのは、一人ではできないのだ。誰かの手で世話されなければ逸れた卵は孵れずに漂うだけ。理鶯に掬われるまでの長い間、殻を破れずにいたけれど、左馬刻は外の世界を俯瞰しながらその時を待っていたのだ。それを銃兎に話してやっても、つがいになることは拒否されてしまう。左馬刻が子供だから本気にしてもらえないのだろう。
 それなら大人になってやる。銃兎より大きく、強く育ってやればいい。
 
 
 
「銃兎、朝メシできてんぞ。パン焼いてやったから」
 うぅん、と起きたのか起きてないのかわからない曖昧な返事を受け取って、左馬刻は白いシーツの塊に手を伸ばす。布を剥がして覗き込めば、銃兎が寝入っていた。うぅん、は寝言だったのか。目が開かないのでまだ意識が眠りの国にいるのだろう。
「銃兎、起きねーの?」
 それとも起こしてほしいかよ。
左馬刻が囁く声に危機感を抱くこともなく、銃兎がむにゃむにゃとシーツを握る。無防備な姿なんて見慣れているけれど、何も感じないわけではない。肘をついて顔を寄せ、頬に唇を押し付けた。ちぅ、と音をたててみたが銃兎は起きない。起きないのか。
「ん……」
 銃兎の寝顔は幼く見えて可愛いが、子供ではない。左馬刻だってそうだ。子供ではない。ここには初めから子供なんかいなかった、と左馬刻は考えている。
「起きねーなら起こしてやらねぇとな」
 慣れたように、半開きの口に触れる。銃兎はいつもダメしか言わないので、寝ているときが一番素直だ。唇に吸い付いてちゅっと音をたてると、心地よさと満足感ですぐに気が乗ってしまう。

 勝手にキスされても未だまどろむ銃兎は、子供である左馬刻にキスされるたびに正論を盾にして怒った。そんなことしたらダメだ、左馬刻が大人になったら好きな人にするものなんだ、とか。とにかく銃兎にキスするのは間違っていると言ってくる。
 俺様が好きなのは銃兎だと言っても「左馬刻の好きは意味が違うんだ」と相手にしてくれない。そんなにキスされるのが嫌なら左馬刻を追い出せばいいだろう。きっぱり突き放して、海にでも放り投げればいい。お前なんかいらない、一人で生きていけとドアに鍵を掛ければいいだけの話だ。そうしない時点で銃兎にも隙と迷いがあり、この長期戦は左馬刻に分があった。子供だからダメって、俺様が子供なのは見た目だけなんだよバーカ。鼻で笑いながら、無防備な唇を舐める。ようやく銃兎が薄い瞼を押し上げた。もう頬と口にキスしてやったので左馬刻の勝利同然だ。やったもん勝ちである。
「さ、さま、さまとき……!? お前……こんなとこで何して……」
「……腹減ったから、銃兎の口やわらけぇか試してた」
 どんな言い訳だ、と思うが銃兎は簡単に信じてしまうようだった。チョロいにも程があるのではないか、こんなんで警察ってやっていけるのか、よく心配になる。
「左馬刻……人間なんか食べたらダメだ。特に俺なんか、煙草吸ってるしばっちぃんだから」
「タバコって、銃兎がいつも吸ってるやつだろ。俺様も吸いてぇ」
「子供は吸ったらダメだ。それに人魚が煙草なんて吸うもんじゃねぇよ……海には煙草ないんだからな?」
 腹減ったなら先に朝ごはん食ってて良かったのに、とズレたことを言いながらサイドボードに置かれた眼鏡をかけている。
「今日は街に行くんだろ?」
「ああ。ハロウィンだし、左馬刻にお菓子買ってやらねぇとな」
 
 
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
 
 
 赤レンガ倉庫の中や、元町通りがオレンジ色のお化けカボチャの装飾で賑わう中、菓子の露店にも力が入っている。カラフルなキャンディ、甘い匂いのするクッキー、キャラメルポップコーン……その他にも色々あって、目移りしてしまう。
「すげぇな」
「ああ。左馬刻、何か欲しいものはあるか?」
「……成長薬」
「それはダメだ」
「フン!」
 ヤケになって集めた色とりどりのお菓子は買ってくれたが、左馬刻は唇を尖らせて拗ねた。銃兎はテキパキと会計を済ませると、袋に品物を詰めて左手に提げた。少年が重い方を持とうと手を伸ばしてくる。「左馬刻はこっちな」と軽い方を持たされて、ますます不機嫌になる。はぁ、と溜息をついたのは言うまでもなく銃兎だ。
「左馬刻……あんまり拗ねるなよ」
「うるせぇ。子供扱いすんな」

「だって子供だろ」

「子供じゃねーって言ってんだろ!」

 真剣に訴えてくる瞳の赤が燃えるようだ。銃兎はそれを見るたびに妙な心地になる。それでも手は離さず、左馬刻は銃兎の手をしっかり握って繋いで、隣をてくてくと歩いている。何も知らない他人から見るとほのぼのした光景だろうが、その実そう甘いものではない。
 ────成長薬。最近の左馬刻は、手っ取り早く身体を成長させるための薬を欲している。
 しかし銃兎が首を縦に振ることは一度もなかった。基本的に左馬刻に対して甘いのだが、成長薬だけは買い与えられることはなかった。俺は子供じゃねぇ、と訴える日々が続き、求愛は相手にされず鬱憤が募る一方だった。

『銃兎ぉ、俺様これがほしいんだ』
『ん?』
 ある日のことだった。
 左馬刻が目を輝かせて持ってきた雑誌。屈んで雑誌に目を通すとそこには【成長薬】の文字が。絶句する銃兎を熱意に燃える瞳で見上げ、左馬刻は薬がほしい、早く大人になりてぇんだと言った。銃兎は首を横に振った。
『左馬刻、これはダメだ』
 成長薬は本来、商品用の農作物や植物、家畜に使われるものだった。
 一日でヒヨコがニワトリになったり、早く苗が育ったり、蕾が花を咲かせたり……決して人間に使うものではないし、ましてや人魚に使うなんて危ないに決まっている。効果があるのかも分からないのだ。左馬刻に何かあったらと思うと決して安易に承諾できるものではなかった。
『なんでだよ』
『これは人間に使うものでも、人魚に使うものでもない。効果の保証もないんだぞ』

『でも、今すぐにデカくならねぇと……っ』

『そんなに慌てなくても、左馬刻のペースで少しずつ大きくなっていけばいいんですよ。左馬刻は知ってるだろうけど、人魚ってのは人間よりずーっと長生きなんだぞ? これからまだ沢山時間があるんだ』
『だからこそだろ! 俺がモタモタやってるうちに銃兎が死んじまうだろうが! 銃兎が居なくなったらどうすんだ! 早く俺が大人にならねぇとダメだ!』
『大丈夫だ。俺が死ぬ頃には、左馬刻は海に帰ってるからな』
『は…………ンだよそれ』
『心配しなくていいんだ。今は子供の身体でも、左馬刻はそのうち必ず大人になるんだから』

『銃兎テメェ死ぬとかふざけたこと言ってんじゃねぇぞ!? 子供扱いすんなって、いつもいつも俺は言ってんだろうが……! 銃兎のクソボケっ! もう知らねぇ!!』
 左馬刻は堪らずに癇癪を起こした。銃兎の足を蹴って怒って走り去る小さな背中に、そっと溜息を漏らす。どうして左馬刻は突然大きくなりたいなんて言い出したのだろう。
 それから、定期的に左馬刻のおねだりが繰り返されるようになった。
 大きくなりたい、大人になりたい。その意思は堅く、頑なでもあり、諦めてくれなかった。
 どうして大きくなりたいんだ?と目を見て銃兎が尋ねれば、眉間に皺を刻んだ左馬刻は迷いのない顔で告げた。
『銃兎とつがいになるんだ』
『……え?』
『俺は、もう海には帰らねぇ。銃兎は海の中に住めねぇだろ。だったら俺は大人になって、陸でずっと銃兎と一緒にいる。他のヤツに取られてからじゃ遅せぇんだよ』
 早く大人にならねぇと。ガキのままじゃ何もできねぇし、お前を護れねぇから。
 まだ小さな人魚の言い分に、銃兎は我が耳を疑った。
────つがいになる、とは。
 つがいが一体どういうことか左馬刻は知っているのだろうか。それに『海には帰らない』だなんて。
 左馬刻が成長したら、海に帰してやる。一人で生きられるようになればいずれは家族や仲間とも出会えるだろう、と理鶯は銃兎に話していたし、銃兎も異論はなかった。左馬刻はとても可愛いかったし、綺麗だったし、天涯孤独の身である銃兎にとって、左馬刻と共に過ごした時間はかけがえのない尊さであることに間違いはない。左馬刻が海に帰るまで束の間の時間を共に過ごせればいいと思っている。ずっと一緒だなんて水槽の小さな泡ほども考えたこともなかった。……いや、正直に言うと想像したことくらいはあったが、本気で考えたことなんか一度もなかった。

 混乱する銃兎の頬に小さな手を滑らせてニヤリと笑う。年齢にそぐわない、悪い男の顔をしていた。唇を頬に押し付けられて我に返り、大人をからかってはいけません!と柔らかな耳たぶを捻った。痛い痛いと文句を言う少年に「とにかく、成長薬なんか絶対ダメだ!」と繰り返し、つがいになる宣言も、海に帰らないと言ったことも冗談として片付けた。
 見た目で言うなら5才か6才の、小さな子供の考えだ。将来ケッコンする!と勢いや幼い衝動で口にしたようなもので、どうせそのうち飽きるか忘れるだろうと思っていた。
 だが左馬刻は飽きもせず、忘れもしなかった。
 大人になりたい、銃兎とつがいになるんだと左馬刻は吹っ切れたようにそれから何度も繰り返し言うようになった。
 人魚の求愛というのは一途で偏執的なんだろうか。左馬刻以外の人魚を銃兎は知らないが、どこででも言おうとするので困った。街の通行人に聞かれれば犯罪者のレッテルを貼られかねないやり取りに眉間に皺が寄るし、どう思われるか考えると頭が痛くなる。
『いいですか左馬刻? 外でツガイとか言ってはいけません』
『その口調やめろやムカつく』
『はぁ……まったく。左馬刻、お前は俺じゃなくて、もっと年が近い人魚を選んだ方がいい。分かるだろ?』
『全然ちっとも分かンねぇ』
『………。大体、俺は男だぞ。百歩譲って人間とつがうにしても、異性を選んだ方が良いんじゃないか』
『俺様は銃兎が良いんだ。もう決めた』
『決めるのが早すぎるんだよ! 俺は子供とツガイになんてならないからな』
『俺様はガキのままじゃなくて、大きくなりてぇって言ってんだよ!』
『ダメだ!』
『……銃兎、もしかして他の雄がいるんじゃねぇだろうな? まさか理鶯……』
『そんなわけねぇだろうが! 変な想像すんな!』
『理鶯にも渡さねぇぞ! 俺様が銃兎のつがいになるんだ、他の雄なんざ許さねぇからな!』
 
 
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

 
 
 そうして叱ったり喧嘩したり、すったもんだしつつ時が過ぎた。未だに諦めてくれない左馬刻と、左馬刻の攻勢に折れるつもりのない銃兎は何度目かの秋を迎えて、休日になると横浜の繁華街や公園を散歩した。食料を買って、手を繋いで二人で帰路につくことは変わらない。
 左馬刻と初めて出会った頃から変わらず警察官として働いている銃兎は、一介の制服警官から巡査部長に出世したが、左馬刻はそんなことよりも銃兎を慕う人間が増えていることの方が心配でならなかった。
 左馬刻ほら、お菓子買ってやるから選べ。子供扱いすんな!ガキじゃねぇからお菓子なんか要らねぇ!なんて今日もまた堂々巡りをしている。
 夕日の沈む方向に見える海面を睨むように眺め、左馬刻は銃兎の手をぎゅっと握った。海がこんなに近くにあるせいで銃兎が俺様から離れるなんて言い出すんじゃねぇのか。海のバカヤロー。帰らねぇぞ俺は。ずっと銃兎と居るんだ!と心に誓う。
 海に帰らないなんて言ってるけど本当は左馬刻だって故郷が恋しいんだろうな……と全く見当違いな感傷に耽ける銃兎が左馬刻の誓いに気づくことはない。
 左馬刻は相変わらず重い荷物を持たせてもらえないし、留守番以外で頼りにもしてもらえない。最近は簡単な調理を任せてくれるようになったから、銃兎からレシピ本をもらってご飯作りに励んでいる。美味しい料理を作ると銃兎は凄く喜んだが、ご飯が美味しいというだけでは左馬刻のお嫁さんになってくれないことは明白だった。
 左馬刻は子供だからと庇護されて、いつか海に帰る日が来るまで陸の思い出を作って過ごすだけ。そんなのは絶対に嫌だ。早く大きくなりたいと言っても銃兎から薬は貰えず、時間だけが過ぎていく。何気ない日々は愛おしく大切だけれど、今年の誕生日で銃兎は29歳になった。
 銃兎は成体だ。いつ誰とつがってもおかしくない。毎年毎年、冷や冷やして気が気でいられないのだ。左馬刻が大人になるまで傍にいるよ、なんて言うけれど他の雄や雌に求愛されないとも限らないだろう。
 実際、街で銃兎に声をかけてくる雄だっている。左馬刻が威嚇しても少年の幼い見た目のせいで全く効果がなかった。睨んでもどこ吹く風だ。
 雌に至っては可愛い男の子ですね~、お子さんですか? なんて言いやがるのだ。見た目的にどこも似てねぇだろ。銃兎が預かっていることを説明すると、銃兎を見据える目の色が変わるのを左馬刻は完全に気づいていた。銃兎は狙われているのに、何も分かっちゃいない。
 雄は銃兎の同僚だとか部下だとか上司だとか、はたまた関係ないナンパだとか、とにかく左馬刻の知らない雄や雌ばかりだったが、どいつもこいつも銃兎の周りに群がる目障りな雑魚同然だった。銃兎も銃兎だ、雄にも雌にもニコニコしやがって。愛想振り撒くんじゃねぇよ。

「左馬刻、明日はハロウィンだけど、それが終わったらお前の誕生日だろ。何か欲しいものはあるか?」
「……考えとく」
「……成長薬って言わないんだな?」
「言ったってくれねぇくせに」
「……まぁな」
「俺は銃兎のこと諦めねぇぞ。浮気したらどうなるか分かってんだろうな?」
「浮気って」
「銃兎のこと水槽に沈めてやる。相手の方は殺す。海に沈めて藻屑にしてやる」
「……子供が物騒なこと言うなよ」
「ガキじゃねぇって言ってんだろ」

 やっぱり今すぐ大人にならないと銃兎を守れない。
 決意を新たにしたその日の夜、銃兎の家に理鶯からの贈り物が届いた。銃兎には決して漏らさぬよう秘密にしていたが、左馬刻が待ちに待っていた贈り物だ。理鶯なら必ず遂行してくれると信じていた。
 夕食後、水槽ではなく自室に帰った左馬刻が何をしていたのかは分からないが、銃兎は明日も仕事であったので規則正しく眠りにつき、出勤していた。
 理鶯から左馬刻へ。少し早い誕生日プレゼントがこの先の未来、どのような結果を齎すのかなんて考えもせずに。
 
 
 
「ただいま、左馬刻」
 昨日の左馬刻には要らないと言われてしまったが、色とりどりのキャンディをいくつか見繕って帰宅した銃兎を迎えたのは、
「よぉ。おかえり銃兎」
 ぐっと色気を伴った低い声。知らない筈なのにずっと前から知っているような、不思議な感覚だった。自分より背が高い銀髪の男に力強く引き寄せられる。見慣れたリビングで見慣れない美形の男に抱きしめられて、銃兎は「へ……」とも「え……」とも形容し難い気の抜けた声を漏らした。煌めく緋色の瞳を縁取る長い睫毛。ぴょこん、と頭の上で双葉が跳ねる銀髪。そして整いすぎて怖いくらい綺麗な顔をした男。特徴こそ左馬刻だったが、銃兎よりも背の高い逞しい体躯は、銃兎の知っている左馬刻ではない。大人の男に声変わりした低い声。すっと高い鼻梁。場にそぐわない色とりどりのキャンディドロップが銃兎の手を擦り抜けて床に散らばったが、拾う者は誰もいなかった。思考停止している銃兎を見て、ふはっと笑う男のカッコいいことときたら。さながら少女漫画にでも出てきそうだ。
「……んだよ銃兎。感想ねぇのか?」
「……ぁ、……へ、いや、さま……?」
「左馬刻様だろ」
 人魚でも人間になっても、左馬刻は綺麗だな、と銃兎は手放しで褒めることがよくあった。自分が綺麗かどうかなんて左馬刻には興味がなかった。しかし銃兎が好ましく思っているなら別だ。そうやって一生俺に見惚れて、夢中になってしまえばいいと思う。
「さ、……ええっと…さまとき、なのか……? 本当に…?」
「おう」
「なんでおっきくなってんだ……?」
「理鶯が成長薬作ってくれたんだ。ブッ倒れるくらいすげぇ味だったけど効果あったみてぇだな」
「理鶯が……!? どうして、お前、まさか理鶯に話したのか……?」
 ────つがいの話も、大人になるための薬も、何もかも。
 もしそうだとしたらとんでもないことだ、理鶯にショタコンだって思われてる、責任持って預かったのになんて説明すれば……!などと言って青くなる銃兎に、左馬刻は首を捻った。
「はぁ? なんで銃兎がショタコンってことになるんだよワケ分かんねぇ」
「ハタから見て、こんなの犯罪者と同じだろ……! 俺がサツなのに、左馬刻の目を覚ましてやれなかったせいで」
「チッ」
 俺様が寝てるとでも言いてぇのか、こんなにてめぇに一途だってのに。苛つくままに銃兎の腕を引っ張り、唇を塞いだ。唇はぷるりと潤っていて、しっとり柔らかい。
「ん、む……!」
「ダメだ。逃げんな」
「んんン……ッ」
 食むように触れ合わせてから唇を離すと、エメラルドグリーンとマゼンタの瞳を潤ませた銃兎が「笑うな……!」と怒る。そう言われても真っ赤に染まる頬が可愛くて、ついまた笑いが溢れてしまう。
「大人になったんだからキスして良いだろ」
「き、キス……は、左馬刻が大きくなったら……」
「もう大きくなったじゃねぇか」
「そっ……そうだけど……やっぱりダメだ、俺じゃなくて、左馬刻の好きな子としないと」
「本気で好きな相手としかキスしてねぇよ」
「~~~~っ」
「へぇ。銃兎、ハロウィンの菓子買ってきてくれたのか」
 すっかり左馬刻のペースだ。大人になった左馬刻が透明なセロファンに包まれたキャンディ達を拾い上げていく。小さな左馬刻を喜ばせたくて選んだものだったが、大人になっていても左馬刻に渡すことに変わりない。レモン味、メロン味、イチゴ味、オレンジにグレープにソーダ。色とりどりのキャンディだ。
「俺様は菓子より銃兎が欲しいからよぉ、このキャンディに魔法かけちまうか」
 可愛いウサギが、俺様のこと好きになって降参する魔法。ウサちゃん食べてくれよ。
 ウサちゃん、と愛でるような低音。キスの余韻が抜けきらない熱っぽい吐息。耳孔に直接吹き込まれるおねだりはフルーツキャンディより刺激的で艶やかだ。ゾクン、と背筋を快感が走り抜ける。左馬刻に抱き上げられた身体は軽々と持ち上がって、膝裏と背中に回された腕で不安定に揺れることもない。ジタバタして暴れて逃げないといけないのに、出来ない。どうしよう。左馬刻は上機嫌で銃兎の寝室に向かって歩を進めた。一歩の歩幅も明らかに広い。
「ウサちゃんも俺と一緒にキャンディ舐めような」
 本当は気づいている。銃兎だって────愛してるなんて言葉じゃ言い表せないほど恋に落ちていた。庇護欲とか親としてとか、左馬刻は子供だからという言葉で取り繕っている体裁が今夜どろどろに溶けてなくなってしまう。可愛い少年でも、成長した大人の男でも、左馬刻に愛されて嬉しくないはずがない。出会った時から綺麗だと思っていた。今までもこれからも特別だ。
 ベッドに倒されてしまうと、冷たいシーツに背中が触れる。既にいっぱいいっぱいになってしまい、銃兎は言葉に詰まった。視界がくしゅくしゅ滲む。
 瞳を細めて嬉しそうな表情をされると、抵抗する気持ちが泡のように静かに弾けて消えていく。
「っ、……さまとき」
「銃兎がすげぇ好きだから大人になっちまった。大人になっても、ずっとお前と一緒にいてぇ」
 ツンと鼻の奥が痛くなって零れ伝った涙を左馬刻が舌先で掬って、唇を押し付けた。ちゅ、ちゅ、と啄まれると強張っていた身体から力が抜けていく。
「銃兎、海みてぇな味すんのな」
「……バカ」