明日の色を教えて

「……オイ」
 この俺様を困らせて無事でいられる人間は数少ない。虫ケラ相手なら、俺様の手を煩わせた時点で即ブッ殺すからだ。
「オイ聞けや銃兎。とりあえず、この状況はねぇだろ」
 だが、コイツに関しては例外だ。銃兎に誘われて酒を飲んでいた。それは変なことでもないし、むしろ俺と銃兎が二人で宅飲みするのは、まあ、よくあることだった。一人で飲むのがつまらない。そんなとき、一緒に過ごす相手を選ぶならコイツ、と俺も銃兎も意見が合っている。これに関しては異状も異論もない。だが、コイツがこうなっちまってることは変なことに入る。
「んー……? なにがだ、さぁまとき」
 言葉にキレがない。歯切れのいい、ヤクザとタメ張れる啖呵はどこいった。呂律の死んでる返事をフニャフニャと投げられ、憚ることなく眉をひそめた。内心に巣食ってんのが困惑か、不快か、区別は俺様自身にもつかないが、どっちだっていい。どっちにしても似たようなもんだろ。このウサポリ公が酔っぱらったせいで変になってやがるんだ。俺様は正常だ。
 俺は銃兎を見下ろした。目元がほんのりと赤く染まっている。しかも煙草一本挟めそうな隙間は開いている唇。要は間抜け面だ。少なくとも俺以外のやつは、銃兎のこんな顔を見たことはないだろう。そして何より、
「ンでお前俺のこと背もたれにしてんだよ。つーかなんで俺様のあぐらの中に満足気に収まってんだよ。女にもしたことねぇぞこんな甘ったるい体勢」

 俺が銃兎を見下ろせる位置にいることは、まあ分かる。俺の方が少し背が高いし、それ自体は日常だ。だが、俺は今、銃兎の頭をほぼ真上から見下ろしている。シャツ越しに銃兎の背中の温度を感じる。この体勢はおかしすぎるだろ。
 ここに来て、一時間くらい経ったくらいでこうなった。耐え切れず銃兎の肩を押す。あちぃ。いや野郎同士でこんなことして寒いにも程があんだろ。ウサギは自分の身に降りかかった圧力に逆らうように方向転換した。向かい合う。近い。しっかり俺の背中へ腕を回し、肩に顎を乗せて、言った。
「……べつにいいだろ。なんかおちつくんだよ、ここ。さまときの匂いするし……」
 どういうことだ。状況が悪化した。愕然とする俺様に構いもせず、頭がもぞもぞと身動いだ。胸板に滑らかな温い感触。銃兎の頬だ、と理解した瞬間ぞわりと総毛立った俺の腕は、理鶯の野営地で見た羽毛をむしりとられたデカい鳥を彷彿とさせた。
「ややややめろや!!! オイ!! 俺に頬擦りしてくんじゃねぇ!!」
 性に合わなくとも、多少面倒でも、アロハシャツの合わせは上までボタン閉めるべきだったのか────俺は初めて反省した。自分の服装のラフさをここまで後悔する日が来るとは思わなかった。
ふと、俺の不快な気分を察知したか、単に頭を押さえ付けられたからか、銃兎は不満を隠そうともせず目を上げた。
「さまとき、うるせぇから騒ぐな。いやなのか……?」
「嫌に決まってんだろーが! 見ろやこれ鳥肌立ったわ!」
「……っ」
 途端に銃兎の瞳が潤み涙が零れたことに、俺は驚かなかった。困惑は解消されて、その分だけ溜め息が漏れた。呂律死んでるくせに会話は一応成立させてたから判断がつかなかったが、俺様に嫌だと言われて泣き出したおかげでハッキリした。
 急に泣くなんて、絶対にいつもの銃兎じゃあり得ねぇ。つまり前後不覚になるほど酔ってるだけだ。だとしたら何をされても困惑はない。俺はもう一度、溜め息をついた。ったくよぉ。頼れる年上みたいなポジションにいて、MTCの纏め役やってる銃兎に泣かれると困る。さっきとは別の意味で困るんだよな。どうしたら良いのか分かんねぇけどとりあえず宥める。
「じゅ、銃兎……なんで泣くんだよ。おいほら泣きやめ。29の男だろ」
「……ん、うう、だって、」
「ヨコハマ署組織犯罪対策部巡査部長」
「いるまじゅーとここに参上……うう、だって左馬刻が悪いんだろッ」
 上擦りそうになる声を押し殺すように泣きながら、銃兎は俺の胸板に顔を埋める。柔らかくもねぇ硬い男の胸だぞ。なんの慰めになるんだか俺にはさっぱり分からねぇ。
「……だっておまえが、おれのこといやだって、いうから……!」
 縋りついてくる腕と、訴える声が、痛みに耐えるように震えている。まさかウサちゃんが泣き上戸だとは思いも寄らなかった。酔っぱらいってだけで面倒なのに泣かれたら余計に面倒だ。ここは適当にあしらうに限る。そんな軽い気持ちだった。
「分かった分かった、俺様が悪かったわ。嫌じゃねぇよ銃兎」
「っ、う……ほん、と……か」
「ホントホント。大マジ」
 ほんの、軽い気持ちだった。

「────んぐ」

 だから、突然の呼吸困難に俺は咄嗟の対応が取れなかった。
「んっ、ん、く……は、んむ、ンン」
 んちゅ、ぢゅ…ッ、ちゅう、くちゅ、と水音がする。下から食い付かれている、と理解して、俺はぐわっとなった。口では説明できない。口が塞がってるせいじゃない。とにかく、ぐわっとなった。
 我武者羅に力技で銃兎を引き剥がし、なんとか落ち着こうと必死で酸素を取り込む。銃兎が覗き込んできた。思うより早くその顔面を両手で覆い隠す。眼鏡のフレームが歪んでひしゃげようと知ったことか。少しでも遠ざけたくて本気で押しやった。
「近寄んじゃねぇよ……!」
「おい、ふぁまとき、やへろ」
「っ、」
 手の平に銃兎の声が響く。振動と籠もる湿気に俺の方が泣きたくもなるが、なんとか堪えて男の顔を隠し続ける。
「クソッ、俺はなぁ! テメェと違って今、割とシラフなんだよ!」
「おれも、シラフだ」
「絶対ェ違う。喋んな。つーか、っあー…やべ、吐きそ……」
「よっぱらってんじゃねぇか」
「違ェよお前にベロチュウかまされたから吐きそうなんだっつの! テメェの口ん中の味がする! テメェの煙草の味もする!」
「………」
「クソ、ったく、これだから酔っぱらいってのはよぉ………!」
 文句を言いながら、わざとらしくないかと内心は落ち着かない。手がじっとりと湿ってきたのは銃兎の呼気のせいか、それとも、俺の手汗か。俺の顔が熱いのも銃兎のせいか。……銃兎の。

「……さまとき」

 不意に呼ばれた。オイやべぇぞ、なんか変な思考に陥りそうになってたじゃねぇか俺。危ねぇ。その隙にうっかり隙間までできてたらしく、指を抜けてくる銃兎の声はさっきより明瞭だ。何よりも聞き慣れたはずの俺の名は、違和感を伴って俺の鼓膜を、いや、脳を、揺さ振る。比例して震えそうになる喉に力を込める。
「ッ。……なんだよ」
 平坦な声は出ただろうか。出せたようには思うが、出せなかったかもしれない。銃兎が不意に俺の手首を掴んだ。心臓が跳ねる。

「さまとき」

 下に引かれて、手はずるりと銃兎の顔から剥がれ落ちた。ついでに眼鏡も落っこちた。

「銃兎おい眼鏡」
「さまとき」
 代わりのように、俺の首の両横を銃兎の腕が滑っていく。巻き付いて、止まる。男の、いや、銃兎の頬が胸板に触れる。涙は止まっていた。
「ふふ。なあ、さまとき?」
「ンだよ……さっきから俺様の名前しか言ってねぇんだわお前。意味わかんねぇ」
「なんかおちつくんだ、ここが。お前といると」
 ここが、と言って銃兎は自分の左胸に俺の手を押し付けた。とくとく、心臓の音がする。銃兎は、ふにゃ、と柔らかく笑って、続ける。
「おまえは、おちつかねぇか?」
「落ち着かねぇよ」
「そうか」
 そりゃざんねんだ、と一欠片も残念がっちゃいない様子で銃兎は頷く。
「じゃあ、あしたのあさまでこうしてたらどうなると思う?」
「……お前が絶叫するだろ。朝からとんでもねぇ声で」
 下手すりゃ俺を殺してくれ左馬刻って迫ってくるんじゃねぇか。ここいらでやめとかねぇと後悔すんぞ。明日の残念でこっ恥ずかしい事故現場を今のうちに話しておいてやる。俺が聞かせてやった未来予測を聞いて、銃兎は懐いていた胸板から顔を上げると、くすくす笑った。
「へぇ。それは、ありませんよ」
「なンでだよ」
「俺な、お前のことが好きなんだ。前から好きだった。俺の夢を叶えてやるって言ってくれただろ? きっとあの日から、左馬刻を好きになってたんだ」
「は」
「そんで俺がお前に沈められる心配もいらねぇ。……このぶんなら、明日もな」
「……んで、だよ。明日になったら沈めるかもしンねぇだろ」
「しねぇよ。だって左馬刻も俺に惚れてるだろ」
「は」
「あーあ、酔ってるって誤魔化すのやめるか。俺シラフだし」
「絶対ェ違うだろもう喋んな。お前シラフじゃねぇし、俺様は惚れてねぇし、勘違いだろ全部」
「俺とキスすんの気持ちよかったくせに?」
「ば、かじゃねぇのか……なにを、ッ」
 シラを切ろうとして失敗する。シラフだと言い張る銃兎が、すごく幸せ、みたいな顔をしたからだ。シラフの俺の顔は相変わらず熱い。銃兎は顔が熱くてしょうなねぇ俺を見て嬉しそうに目を細めて、俺様の胸板に頬を擦り寄せた。

「なあ、朝までこうしてたら、またキスしよう。……キスしてくれるか?」
 ────クソ。なんだこれ、困った。
 さっきは軽い気持ちでコイツをあしらっただけ、だったが。頬擦りしてくんな、とか色気も素っ気もなく言い放ってた鈍感野郎はウサギに噛まれてどっかにいっちまったみてぇだ。
 明日の朝までこうしてたら、俺と銃兎の何かが変わる。案外、今までと変わらねぇ気もするけど。
 どうなるかは明日になってみねぇと分からねぇが、銃兎の眼鏡を拾わなかった時点で答えが出てるようなもんだろう。ひん曲がったフレームの眼鏡なんてキスする時に一番邪魔だ。