やわらかに差す陽に目を覚まして、自分の家のものではない天井を見上げる。広いベッドで寝返りしたところで、隣にあった体温が抜け殻になっていることに気づいて起き上がった。
(朝か……)
すっぽりと抜け出したままの形に残っている布団を撫でて少し笑う。部屋を出て、ジュージューと音のする方へ足を向ける。ひょっこりと顔をのぞかせた先に、エプロンをつけた背中が見える。
「おー、やっと起きたのかよお前。今日はまたずいぶんお寝坊さんだな」
顔だけ半分振り返る。揶揄うように笑いながら、左馬刻はフライパンでウインナーを焼いていた。
「……今、何時だ」
「10時半すぎ。メシどうすっかな……」
「それ、作ってんの朝飯だろ」
「朝でも昼でも良いぜ？ うまそうな匂いさせてたら腹ペコのウサギが起きてくンだろうと思ってな」
「……ふん」
「ウサちゃんいらねぇなら俺様が食うわ」
「食べる！」
これは朝飯ってことにする。銃兎は迷わず言って、少し離れた壁にもたれた。二つずつ用意された皿や箸を見つめる。いつも目覚める時間より日が高いからなのか、タワマンが特別日当たりがいいのか分からないが、朝の光に包まれ照らされたキッチンは、そこだけ別の世界のように平和に見えた。胸が詰まって痛いほど、それはとても幸福を含んだ風景だった。
(……なんだこれ。なんて言やいいんだ、こういうの)
ぼうっと突っ立っていた目の先に、トーストの乗った皿を押し付けられる。
「おい銃兎ぉ、まだ寝ぼけてんのかお前。突っ立ってンならそっちの机に運んでくれや」
はっとして受け取りながら、ダイニングへ向かう。キッチンの方から「じゅーと」とまた呼ばれ、向かうとコーヒーの良い匂いがした。
「お前もコーヒー飲むだろ？」
「ああ。チーズトーストにしてくれたんだな」
「お前好きだろ」
やがて、ウインナーと目玉焼きの乗った皿が登場した。チーズトーストの横に並べていると、挽きたてのコーヒーの薫り。
「いただきます」
目玉焼きは半熟のトロトロだった。何度か見たから知っているが、相変わらず左馬刻の箸づかいは見かけによらず綺麗だと思う。じっと見惚れていると「食わねェのか？」と首を傾げられて、慌てていただきます、と手を合わせる。まずは左馬刻の淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ。
「どうだ？」
「……美味い」
「フン、当然だな」
左馬刻が自信満々に笑う。二人分の朝食。テレビではくだらないバラエティ番組が流れている。あまりに穏やかな朝だった。穏やかすぎて、現実かどうか分からなくなる。
「……どうしたんだお前」
なんの脈絡もなく自分の頬をつねっている銃兎を、左馬刻が目を丸くして見つめる。銃兎は痛みに顔を顰めると、夢なんじゃねぇかと思って、と呟いた。
「昨日の夜から……今こうやってんのも、全部夢なんじゃねぇかと思って」
「ほっぺた痛くねぇの？」
「痛てぇ。それに飯は美味いし……」
「よかったじゃねぇか」
低く笑いを含んだ声で、銃兎ぉ、と呼ばれて顔を上げる。
「もっかいやり直すか？ 昨日の夜と同じようにしてやろうか」
え、と上げた顔にテーブルの向こうから伸びてきた顔が重なる。キスされた、と遅れて理解した。
「……俺様は全部覚えてっけどよ。ウサちゃんが信じられねぇってんなら、もっかい繰り返してもいいぜ」
意地悪そうに細められた瞳が楽しそうに光る。
「に、……いや、ううん」
「なンだよ」
「……二回目だから、そんな素直に抱かれてやらねぇと思ったけど、左馬刻がかっこいいし、それでも良いな」
嬉しそうに笑った銃兎は目玉焼きとチーズトーストを頬張る。今日は休日なので、しっかり30回ほど噛んで飲みこんだ。太めのウインナーは皮がパリッと焼かれて、噛めば肉汁が溢れてくる。
「トーストも目玉焼きも、ウインナーも、全部うまい。ありがとう、左馬刻」
左馬刻は一瞬ぽかんとしていたが、やがて視線を逸らす。照れくさそうにしていることはすぐに分かった。なにを照れる理由があるのかと、瞬きする。
「どうした……？」
「お前なぁ、マジで俺様のこと好きすぎンだわ……心臓持たねぇ」
「……ふふふ、まさか。Mr.Hcが恋愛ごときで、そんなわけないでしょう」
「なんで信じねぇンだよ」
「だって俺だぞ？ 俺なんか」
「銃兎が俺を変えたんだ、他の誰でもねぇ。昔よりずっと気分が良いぜ？ 過去の俺様に会ったらウサちゃん見せびらかして自慢してやるわ」
ふ、と吐いた息の音がやわらかく響いた。一体どんな想像をしたんだろう。
見せびらかすほど立派で、自慢したくなるほど素晴らしい恋人だという自信は、銃兎にはあまりなかった。過去の左馬刻には会ってみたいけれど。部屋に差す朝の陽の光。あたたかい朝食。キッチンに立つ後ろ姿を見つめたときに感じた胸の痛みが、またぶり返した。いや、それよりもっと胸が詰まる。
「……あー、でもダメだな」
「そ、そうだろ。流石に俺じゃ」
「過去の俺様がウサちゃん欲しがったらラップバトルしなきゃなんねぇだろ。俺様のウサちゃんだから渡せねぇし」
くつくつと幸せが溶けたように笑う声を聞いて、もう何か無粋な卑屈を言うのはやめた。左馬刻の方こそ俺を好きすぎるんじゃないかと内心でほこほこしつつ、ぬるくなったコーヒーカップを干してしまう。胸は相変わらず、きゅぅと締めつけられるような感覚がしていた。噛みしめても噛みしめても、まぶしさが溢れてくる。
「……左馬刻、あの……コーヒーのお代わりがほしい」
「ンだよ自分でやらねぇの？ 甘ったれウサちゃんだな」
文句の割にニヤニヤしていて楽しそうだった。銃兎のだけでなく、傍らにある左馬刻のカップにもお代わりが注がれていく。湯気と一緒に、正統なコーヒーの香りが広がった。二つとも満たされたそれは涙が出そうなほど、とても幸せな風景だった。