それは軽い気持ちだった。
「左馬刻は嫉妬なんかしないだろうな」
「するわ」
「…………」
意外だった。左馬刻が、そんな。
「好きな相手なら嫉妬すんだろ」
色めいた年頃の言葉を聞かされた銃兎は上手く流せず、煙草を咥えて引き攣る口元を隠した。遊びのワンナイトラブではなく本気だということは、左馬刻に言われずとも知れた。酒は身体に良くないが、常識だけで生きられない悪い大人には酒が必要なのだ。そして左馬刻はあの時、酔っていた。
────好きになったかもしれねぇヤツがいて、でも言ったら絶対ェ逃げられるから言えねぇし、溜まるばっかりだわと、銃兎に向かって不満を口にするくらいには酔っていたのだ。煙草が苦く感じるのは今日に限ったことではない。しかし、好きな相手がいると告げられたのは初めてだったからショックを受けた。
最初がそうだったように、左馬刻が酔って銃兎の背中を引き寄せた夜は、セックスする。そして最初がそうだったように、左馬刻は銃兎を抱いた夜の詳細なことを、目覚めた朝には忘れている。夜に摂取したアルコールが翌朝にはすっかり分解されてしまうように。
覚えているのは銃兎だけである。不毛だ。しかし、堪らなくなってしまったのだ。最初にセックスした夜、振り解いても絡んでくる左馬刻の腕を引っ張ったのは銃兎だった。なかば自棄になっていたのは認める。なんだかやたらと懐いてくるヤクザな男に、我慢できなくなってしまったのだ。好きなヤツがいると聞かされ、溜まってるとか言われて、付け入って何が悪い。
▲▽▲▽
我ながらだいぶキてるとは思うが、気づいてしまったんだから仕方ない。左馬刻が肩を組んで「銃兎ぉ、お前とチーム組んで正解だったわ。もちろん理鶯も最高だけどな」「このあとメシ行こうぜ」なんて言ってくれる声を聞きながら野良バトルの疲れを癒やしていたら、気づいてしまった。
ふわりと空気に浮いた左馬刻の匂いが、前に会った時と違っていた。
────左馬刻、香水変えたのか。
聞けないが。そんなことを聞いたら気持ち悪いと思われるかもしれない。銃兎は今の”信頼できるチームの仲間”という立ち位置を守っておきたかった。でも気になりはする。内心で悶々としていると、前方に飴村乱数が現れた。アイツは左馬刻の、元チームメイトだ。TDD────他を圧倒する強さ故、伝説と呼ばれていた四人のうちの一人だ。
「さっまときぃ~! ……あれぇ? もしかして前と香水変えた? 匂いが違うような……くんくんくん…」
「うぜぇ、おい離れろやダボ!」
「ええー?」
勢いよく抱きつくのは論外だとしても、そうやって気安く聞けるのは良いな、と思った。『くんくん』なんて、銃兎には絶対に出来ない行動である。こっそり二人の会話を聴くことに徹する。
「ねーねー、なんで香水変えたの?」
左馬刻は、飴村乱数の質問に対して鼻にかかったような笑い方をしてから「教えねぇよ」と答えた。教えない、と口では言いつつ聞かれたことが嬉しかったようだ。
こういうとき、勘繰ってしまう。秘密の理由があって、誰かにそれを聞かれて嬉しい。やっぱり好きな相手がいるのだ、左馬刻には。すごく寂しくて、でも仕方のないことだろう。
(左馬刻に付き合う相手ができたからって、俺が止められるものじゃねぇんだから。邪魔したいわけでもねぇしな)
だから仕方ないんだ、と理解できていても気落ちはする。未だに抱きつかれたままでいる左馬刻から、さりげなく距離を取った。
しかし目敏いシブヤのリーダーは立ち去ろうとする銃兎に視線を投げると「ねぇねぇウサちゃん!」と可愛らしく声をかける。
「ウサちゃんは、サマトキサマがどうして香水変えたのか知ってる?」
「……! ああ、すみません。私が……その、何か?」
「乱数! コイツに絡むんじゃねぇ」
「ええー、いいじゃん! サマトキのケチんぼーー。ねぇねぇ、ウサちゃんも匂い違うの分かるよね? もしかしてサマトキサマの香水ってウサちゃんが選んだとか?」
「そんなわけないでしょう? ……まあ、たしかにいつもと違いますけど、清潔感があって……悪くない香りだと思いますが……」
「へぇ……! そっかそっかぁ。趣味変えて良かったねサマトキサマ♪」
「うるせぇなお前もう余計なこと喋ンじゃねぇ。オイ、いつまで抱きついてんだよ! 邪魔だ!」
今の状況を見ている限り、この場に銃兎は必要ないだろう。今度こそ二人を残して先に歩き出す。後ろ髪を引かれるような思いだが、振り返ったところで何もできないのだ。だから振り返らない。
「銃兎! どこ行きやがる!」
背後で聞こえた声を無視して、早足で歩いた。追撃してきた電話の着信がいくつも履歴に連なったところで、とうとう根負けして宅飲みする約束を了承してしまったのは、これはもう左馬刻様の我儘を聞いてしまいたくなる性分だから致し方ないのだ、きっと。
▲▽▲▽
「……それで? あれからどうなったんだよ、その子とは」
左馬刻は銃兎の自宅玄関に来てブーツを脱いだ時には間違いなく拗ねていた。銃兎が「悪かったよ」「邪魔したら悪いと思ったから」と理由を話せば「んなこと気にしてんじゃねぇよ」と唇を尖らせる。それでもなんとか機嫌を直してくれたらしい。「ウサちゃん腹減ってねぇの?」とちょっと洒落たアラカルトまで作ってくれて、今はすっかりいつもの調子でいる。
しかし銃兎の中でやはりどうしても気になるのは香水のことだった。やっぱり、左馬刻の匂いは以前会った時と違う。乱数に教えてくれなかった秘密だが、今は自分と左馬刻しか部屋にいないことだし、それとなく探りを入れてみた。
「あ? ……あー、それな、変わンねぇよ」
「進展してないのか? 香水は、その……彼女からプレゼントされたんじゃねぇのか」
「気になンの?」
「ぁ、いや、別に言いたくねぇならいい……! 飴村乱数にも秘密にしてただろ」
「アイツはおちょくってきやがるから絶対ぇに言わねぇ。……まあ、TDDやってた頃の俺と今の俺様は違うっつー話だ。ちっと変えてみても良いかと思ったんだよ」
「そう、だったのか……」
女とは関係ない理由。ほっとしてしまう自分がいる。今は良くても、いずれ仲を深めていけば、銃兎のシミュレーションした未来が訪れるだろうことは想像に難くないけれど。銃兎が知らずに緊張していた息を砕けた笑みに変えれば、「ンなことで沈んでたのかよ」とあやすような声が降ってきた。
「ま、別に女と連絡取り合ってもねぇしな」
「は……!? お前、俺にはくだらねぇ連絡とか寄越してきやがるくせに何やってんだよ。暇なら今からでも」
「うるせぇな、しねぇよ連絡なんざ。何も話すこと思いつかねぇし……」
投げやりな調子で面倒に言う左馬刻を、銃兎は複雑な気持ちで眺めた。銃兎の恋煩いも拗らせている自覚があるけれど、左馬刻もこの様子では大概ではないか。左馬刻が誰かを思って悶々としているのは珍しい。出会いも多いだろう。容姿も経済力も、申し分ない。煩ったりせずとも大層モテるヨコハマの王様であるからして、女に困っている様子は微塵もないのに。
「左馬刻が本気出せば、どんな相手でもオトせるだろ」
恋心は紫煙で一時的に見えなくし、銃兎は本心から言った。背中を叩こうとしてやめたのは、自分にその資格はないと思ったからだ。左馬刻に想いを寄せて、依然として成熟していないらしい女との関係を内心で喜んでいる自分は、左馬刻を慰めるには汚れすぎている。
「銃兎……」
グラスを眺めていた左馬刻が顔を上げ、銃兎を見た。燃えるような色の双眸に、色を増して溶ける冷めた青。何かを見据え、見透かすような。ドキリとする。だが、銃兎の危惧していたことは起こらなかった。何か核心に迫るわけでもなく、その後も左馬刻の口は止まらない。
曰く、仕事に一生懸命で大体いっつも忙しそうだとか。そのせいでメシ食わねぇ時があって心配だとか。
身長低いせいで俺のこと見上げてくんのが可愛い。俺より腰細くて、見てると思いっきり、抱きしめ、たく、なる……なんて、どうでもいい女の情報が銃兎の脳内メモリに記録されていく。記録するほど心がどす黒くなっていくのは嫉妬のせいだ。左馬刻め、俺の気も知らずに、いや知らないのは当然なんだが。
「そんなに……」
「ん?」
「そんなに好きなら早く告白しろよ。俺にノロケやがって、なんなんだ」
「簡単に言うじゃねぇか。だったらウサちゃんが俺様だったらどうすんだ。好きなヤツに告白なんかできるか?」
瞳の紅が、銃兎を映して問う。とろりとした光沢を纏って。
「……俺は、しない。ハナからそんな選択肢持ち合わせてねぇんだよ。……伝えねぇし、誰にも言わねぇ」
こんなことを続けていたら妬き焦げてしまいそうだった。
「やっぱりテメェも言わねぇんじゃねぇか」。銃兎の言葉を受け、それみたことか、と言わんばかりの不遜な声だったが、態度は全く不遜ではなく、やるせないような顔をしていた。銃兎の腰へ腕が伸ばされたかと思うと、ぎゅう、と拘束してくる。そのまま、ずるずるとソファに寝転がってしまう。銃兎の腰の辺りに鼻先を埋めて、もう何も言わなくなった。こんな甘えるような体勢、左馬刻にしては珍しい。男二人で何やってんだよと笑って茶化してやろうとしたが、左馬刻が呟いた言葉に、息が止まる。
「……好きだ」
「ッ」
ああ、どうして彼女じゃなくて俺に、こんな声を聞かせるんだ。酔っぱらいの戯言にしては低く落ち着いている。くぐもっているのに、すぐそばで残酷な甘さを孕んで、銃兎の耳に届く。もう酔ったんだろうか。左馬刻は既に夢の中で、自分が勘違いしているとは知らずにいるのかもしれない。銃兎の腰を抱き寄せる左馬刻の腕に、また力が込められた。
────細い腰を思いっきり抱きしめたくなる。
左馬刻の柔らかく響く声が、思い起こされる。本当に好きなんだな。俺じゃダメなんだろうなぁ。銃兎は嫉妬を通り越して目頭が熱くなってきてしまい、慌てて天井を仰ぐ。見上げた照明の光は、ぐしゅぐしゅと滲んでいる。
「……クソボケ。現実のお前、ぜんぜん違う相手なんか抱きしめてんだぞ」
銃兎が心底惚れている碧棺左馬刻という男は、とても魅力的な男だった。圧倒的な力。チームのリーダーとして、ヨコハマに王として君臨して統べるカリスマ性。弱い者には手を出さず、弱い者の立場を考えられる優しさ。舎弟の面倒見も良い。顔の造形も声も、惚れ惚れしてしまう。こんな最高の男に想われているくせに、まったく眼中に入れないなんて、どんな女だよ。
「……いらねぇんだったら、俺にくれよ」
ぽつり、想いを吐露した銃兎に応えるように、左馬刻の腕が尚も銃兎を引き寄せた。心地いい。胸の奥に燻っている感情の揺らぎが凪いでいく。それにしても酔って前後不覚になっているにしては、やけにしっかりと強く────
「今なんつった?」
「!」
まずい。左馬刻に知られた、かもしれない。気を抜きすぎた。俺にくれ、なんて過ぎた願望をうっかり漏らしてしまったばかりに。銃兎は身じろいで抜け出そうとしたが、既に遅かった。離してもらえない。
「さ、さまとき」
「なぁ、銃兎。逃げられると思うなよ」
「うるせぇ、黙れよ」
「銃兎」
「さまとき近いから! マジでやめろって……!」
耳元で名前を呼ぶな。呼ばれると心臓が爆発しそうになる。血液がぐつぐつ煮えそうなくらいに熱い。
「嫌ならもっと本気で抵抗しろやマル暴のウサちゃんよ」
「できねぇの分かって言ってんだろクソヤクザ!」
どうにもできないほど好きになってしまったのだ。このギラついた目でタチの悪い行動をしてくる男が。
左馬刻は銃兎の顎を掴み上げて、強引に視線を合わせてきた。ああ、キスだ。キスをされて、今夜も溜まっているだろう左馬刻とセックスして、翌朝にはどんな風に銃兎を抱いたのか忘れてしまうんだろう。スッキリしたという記憶だけしか残らない。左馬刻にとっては、その程度のことだ。
────俺は忘れられない。最初の朝も、その次の朝も、その次も、ずっと忘れられない。これから訪れる夜だって。
好きだ。好きだ。お前が好きだ。俺を見てくれ。俺を好きになれよ。他の誰かなんて見るな。顔も名前も知らない女め、左馬刻様に後から惚れたって言っても、俺が許さねぇ。俺のほうが先に好きになったんだ。俺の方が左馬刻のこと知ってるし、俺の方が好きだ。左馬刻のためなら死んでも良いくらい好きだ。
先に好きになった方が偉いわけでもないし、実際にそんなことが起きれば左馬刻と女性の未来を祝福する自分が容易に想像つくけれど。それでも今だけは腹立ててもいいだろと、腰が細いらしいトルソーに心の中で中指を立てて、目を閉じた。
しかし、数秒間じっと待っても唇が重なることはなかった。ふ、と吐息を漏らして笑う気配。
「……すると思ったか? このまま有耶無耶にして、今日もセックスして終わりってよ」
「あ……え……?」
閉じていた視界を取り戻すと、銃兎の涙の雫が親指で拭われる。左馬刻の赤い瞳が笑っていた。ブラフ、という単語が脳裏に浮かぶ。アルコール漬けの本能めいた野蛮が消え失せ、細められた左馬刻の双眼は、まるで愛おしいものでも映しているように、優しく銃兎を見ていた。ああ、本当に、なんでこいつは俺を好きじゃないんだろう。どうしてそんな顔をするんだ。どうして優しくするんだ。好きな女がいるんだろう、左馬刻。期待させないでくれ。勘弁してくれよ。
「俺様は散々話したぜ。ウサちゃんは言わねぇのかよ」
「な、にを」
「好きな奴の話。いンだろお前にも」
銃兎は口を噤んだ。言ってしまえば、もう誤魔化せない。顔も名前も知らない女に悋気を走らせていたのも、全てバレてしまう。なんとか誤魔化さなければ。沈黙するほど不利になることは経験上分かっていたので、銃兎は「いる」と咄嗟に口火を切った。絶対にバレるわけにはいかない。
「髪が、黒髪で、す、ストレートの女」
「……あ?」
「短気じゃなくて、怒鳴ったり殴ったりもしねぇし、あとバカじゃなくて、まっとうな職についてて、あとそう、俺より大人で」
「ウサちゃんより大人で、年上の女だって?」
「ん、そう、そうだ、だから……左馬刻とは全然似てねぇんだ。本当だから」
銃兎が付け加えて言いつのれば、左馬刻は「なるほどなァ」と一言。
「随分と熱上げてるみてぇじゃねぇか、初めて聞いたぜ。ソイツと付き合うのか?」
「そ、そうだ」
「じゃあ、もう俺とこうやって会うのも終わりにしねぇとな」
「………そんな」
「最後なら空っぽになるまでシようぜ、銃兎。口開けろよ」
「………」
自らの王に命じられるまま、銃兎が微かに唇に隙間を作る。まだ完全に開いていないうちから左馬刻の舌が差し込まれ、上顎の軟口蓋を舐められ、舌を絡ませ合う。脳天に痺れる快楽。ダメだ、あらがえない。気持ちいい。左馬刻のキスはいつもそうだ。これが最後だなんて、ひどい。残酷な宣告をしてくれたものだ。舌を包むみたいに吸われ、拠り所を求めて左馬刻の背にしがみついた。
「ん…ぅぁ、……さま、…さまとき」
「じゅうと」
「……は、ン、ふ。……んぅ…は、ぅ」
「は、……お前いつもすぐトロトロになっちまうから心配だわ。俺様とすん時はいいけどな」
「う、るせぇよ。……! ッ?」
今、左馬刻が重要な一言を言わなかったか?
────いつも。
いつも酩酊しながら、唾液を交わらせるキスをしていた。それなのにキスの仕方も、銃兎の反応も、覚えているような口ぶりだった。左馬刻は忘れていたのではなかったのか。まさか、まさかこれは。
思い当たる可能性。しっかりと抱きすくめられた腕の中、心拍数がバクバク上昇して、どうにかなりそうだった。左馬刻はニタリと楽しげに口角を上げる。
「やっと気づいたのかよ。何回俺に抱かれたと思ってんだ?」
「お、お前……! 覚えてたんなら、そう言えやッッ!!」
「なァんでだよ。言ったらテメェどうせ、俺のこと好きなんて気のせいだとか、俺じゃ相応しくねぇとか抜かしてぴょんぴょん逃げンだろ? ウサちゃん」
たしかに、否定はできない。この男が悪知恵の働くヤクザであることを忘れていた。意地悪で、最悪だ。それでもこんな男が好きで、これからも付いていきたいという気持ちは変わらなかった。もう何度、伝えずに押し殺していたか分からない気持ちを伝えるために、もう一度キスをした。左馬刻の首に腕を回して、柔らかく触れるだけのキス。今までの人生で、自分から好きな相手に唇を重ねるのは、初めてだった。
「ンだよ、かわいいことしやがって」
「俺に好きなやつがいるって言ったら……左馬刻も、嫉妬してくれんのか」
「左馬刻様ですって答えなかった日には、名前出した人間が海に沈むと思えや」
「はぁ? お前なぁ、ハハ、なんだよそれ。物騒すぎんだろ……」
「サツが殺人事件起こすわけにはいかねぇよなぁ?」
逃げ道塞いで、ずるい男。だが今の銃兎には逃げ道など必要ない。短気で、怒鳴ったり殴ったりするし、あとバカだし、まっとうなヤクザなんか世界中どこ探したって居やしない。あとそう、俺よりガキで、年下で、手がかかって、でもそれがどうした。コイツのそういうところ全部ひっくるめて好きなんだよ。
「オイなんとか言えや銃兎」
ヨコハマの平和に貢献するためにも、まずは大好きな左馬刻様にお望みの言葉を。