そうしてお前に触れるまで - 1/2

 もしもの話をしよう。
 もしも、想いだとか心だとかいう、言葉にも代え難い不確かなモノを可視化することができたのなら、俺の今の状況も、覆すことができたかもしれない。
「オイ銃兎、金」
 突き出された右手を見つめながらそんな馬鹿げたことを考えている俺の目の先で、催促するようにその右手が揺れる。
「聞いてんのかよ銃兎」
 右手の主の声に若干の苛立ちが混じる。俺は無言でその右手に一万円札を二枚、差し出す。決して安い金額ではない。それでも思う。これは破格だ────左馬刻と朝まで過ごせる時間を、左馬刻のイロでもない俺が手に入れられるんだから。
 紙幣を受け取った左馬刻はそれを適当な仕草で財布に押し込み、その財布を枕元に置くと、羽織っていたアロハシャツをバサリと脱ぎ捨てる。
「シャワーは? どうする」
 聞かれて、首を横に振る。いつものことだ。いつものことなのにいつも聞いてくる左馬刻は、もしかしたらシャワーを浴びたいのかもしれない。
 しかし、シャワーなんて必要ない。寸暇も惜しい、というのもあるが何より、俺にとっては左馬刻の汗の香りも対価の万札に含まれている。
 肩を竦めてベッドに横になる左馬刻の隣に、俺は服を着たまま、横になる。
「お前は脱がねぇの」
 聞かれて、頷く。これも、いつものことだ。いつものことなのにいつも聞いてくる左馬刻は、もしかして俺に服を脱いでほしいんだろうか。そんなわけはない。単に、俺だけ脱がないことが釈然としないんだろう。
 しかし、これでいい。俺は、俺が左馬刻の温度を、ぬくもりを、体臭と汗と香水の混じったこの匂いを感じたいがために金を払っている。俺の存在を左馬刻に感じさせたいわけじゃない。そんなこと俺は求めていない。だから今日も、俺は脱がない。
 左馬刻はこの時だけは文句は言わず、部屋の明かりを消した。
 暗闇の中、左馬刻が俺に手を伸ばす。俺の首の下に左手を突っ込み、右手は俺の腰に回し、頭と身体を抱き寄せる。が、隙間がある。不満だ。もう少し強く抱きしめて、この隙間を全部埋めてほしい。
 しかしそれはきっと、二万円では足りないんだろう。もっと支払えばあるいは────考えそうになって、やめる。今の俺と左馬刻は、添い寝するだけの関係だ。こうして抱き寄せてもらえるだけでも破格だ。これ以上、何を望むのか。そんな夢見の悪くなる文句を左馬刻に聞かせるわけにはいかなかった。

「…………」
 でも本当は、こんな関係を望んでたわけじゃねぇんだよ、俺は。堪えきれずに、ゆるんだ涙腺から涙がこぼれる。腕を濡らした感触に気付いたのか、左馬刻が何も言わないまま俺の頭を撫でる。これも、いつものことだ。
 そっと頭を下げて、左馬刻のほうに額を寄せる。左馬刻の汗の匂いは時に興奮を煽り、時に俺を落ち着かせる。まるで麻薬のようだ。いや、火貂組じゃヤクはご法度だし、俺もヤクをこの世から撲滅すると決めているが。
「ウサちゃんよぉ。子守唄、歌ってやろうか」
 揶揄うように、けれども酷く優しく、左馬刻が問いかけてくる。俺は首を横に振る。これもまた、いつものことだ。
 こんな関係を続けて、もう三カ月になる。
 
 
 
 認めざるを得なかった。俺は左馬刻に惚れている。息が苦しくなって、胸のつかえが重い。俺は視線を落とした。それが始まりの夜のことだ。
 抱え続けた好きが大きすぎて、手に余り、左馬刻のことばかり見てしまうせいで手に負えなくなっていた。左馬刻が女を連れていると胸が痛んだし、俺には見せない顔を想像すると張り詰めた心が次の瞬間にはぐずぐずに澱む。まさに恋を患っていた俺は、ついに連絡もせず左馬刻の住むタワーマンションに押しかけて「今夜は私と寝てくれませんか」と言った。浅ましい欲望からではない。ただただ、明け透けなことを言って、左馬刻からの拒絶を目の当たりにしたかった。女にモテる左馬刻だが、女どころか男まで好むとはついぞ聞いたことがなかったし、仮に男もいけるタチだったとしても、俺相手ではそんな気になんてならないだろうと確信していた。
 左馬刻からしてみれば今にも寝ようという夜中に身勝手に押し掛けるような俺の、どこを好けというのか。不快に思われたくて、わざとそうした。だから、期待も希望も欠片も持てぬよう、叩き潰してほしかった。そのための『私と寝てくれませんか』だった。
 左馬刻が好きだ、と言えたらよかったのかもしれない。しかしまさか、好きだなんて言えるはずもなかった。ただ、好きと言えずとも、俺と寝ろと言えば、左馬刻に欲情していることが伝わると思った。俺のこの、実にも身にもならないような恋を左馬刻に潰してほしかった。

 せめて、抱いてくれ、と言うべきだったか────そんな適解に気付いたのは、左馬刻が戸惑いに満ちた沈黙のあと、ソフレでも捜してんのかよと言ってからだった。一回二万、オプション無し、追加要求も無しな、と宣言して、シャツを脱ぎ捨て、俺の服を剥ぎ取り、二人一緒にベッドへ横になって、翌朝を迎えて……今思えば、シマのそういう店みてぇな条件だ。
 想定外の出来事に俺は「え」だとか「は」だとか「なっ」だとか、とにかく言葉らしい言葉は全く口から出てこず、まさか左馬刻は男もいけるタチで、しかも俺を抱けるのか?ソフレってなんだ?セフレと似たようなモンか?そんなことを望んでいるのではないと言うべきではないのか?
いやでも左馬刻がいいと言うんだったら。一度だけ、思い出にヤる、と、いうのも、ありではないだろうか……などなど、浅ましい期待と下心に身を任せていた。俺だって男だ。
 あとで調べて分かったことだが、『ソフレ』とは『添い寝フレンド』というモノの略称らしい。
 添い寝。そう、添い寝だ。あろうことか左馬刻は、寝てくれませんかを、添い寝してくれませんか、と誤解したらしかった。
 そんなバカなことがあるか!?
 ……と思ったものだが、事実、アロハシャツを脱ぎ捨てた左馬刻に抱き寄せられて、いよいよだ、と胸を高鳴らせつつも未知への痛みへの恐怖から顔を背け目をぎゅっと閉じた俺に、しかし左馬刻はそれ以上の接触をしなかった。それどころか、じゃ、おやすみ、と言ったかと思うとものの数秒で寝息を立て始めた。寝たふりかとも疑ったが、違う。
 憎からず思っていた相手の素肌にときめきはやまなかったが、いびき一つ立てずにスースーと静かに眠る左馬刻の腕の中で気が付けば俺もすっかり寝入ってしまい、翌朝、目が覚めたときに左馬刻の美形すぎる顔が目前にあってぎょっとした。その気配に左馬刻も目を覚まして、目前にあった俺の顔に俺と同じようにぎょっとしたあと、ああ、と昨夜のことを思い出したように呻き、これで良かったか、と身体を起こしながら尋ねてきた。
 ……良くはなかった。言っちまうと最悪だった。俺が求めていたのは、俺を完膚なきまでに拒絶する左馬刻だったんだ。
男を抱くなんか絶対に御免だと。そうでなかったとして、実は左馬刻が男もいけるタチだったとして、それでも左馬刻は「銃兎相手にセックスは無理だろ。勃たねぇわ」とやはり俺を拒絶するはずだった。
 しかし、そうはならなかった。
 溜まってるから捌け口に使わせろや、と言われる超展開くらいならまだ良かった。いや、俺相手に興奮する左馬刻なんか今になって考えれば夢のような話だ。決して俺が左馬刻に向けている好意と同じ意味で左馬刻が俺を好くことはない。
 そんなことをまざまざと思い知らされるくらいなら、抱き寄せられないほうがマシだった。望みがないのなら寸分も期待したくなかった。だから、こっぴどく拒絶してほしかった。
 しかし左馬刻は拒絶する以前に、俺の言ったことを正しく理解すらしなかった。まさか俺が言った、寝てくれ、が、抱いてくれ、という意味だったなんて思い付きもせず、俺が左馬刻に惚れているなどと夢にも思わず、なんの忌避も警戒もなく平然と俺を裸で抱きしめて眠れる程度に俺を仲間として信頼してくれている左馬刻。それは俺にとっては毒でしかない。やがて死に至る、甘い毒だ。
 色々と言ったがつまり、最悪だ。左馬刻が俺に示した拒絶も許容もない答えは、最悪だった。

 だというのにあの時の俺は、悪くなかった、また頼む、と言って、金を差し出したのだった。……誰にでもこんなことしてんじゃねぇだろうな、と呟く不機嫌な筋モンの声は聞こえなかったふりをして、俺は左馬刻の夜の時間を買っては左馬刻の部屋のベッドで添い寝してもらっている。恋愛の結末としては最悪だったが、癒されることは癒された。
 ソフレのルールは“セックスをしないこと”それだけ。あとは二人で自由に決めていいんだという。抱きしめてもいいか、手は繋いでもいいか、キスは、OKか。
 つまり、それぞれの許容範囲に委ねられているのがソフレの関係だ。俺の服を脱がそうとする左馬刻を止めたのは二回目の夜で、シャワーを浴びようとする左馬刻を引き止めて、シャワーは浴びなくていい、と言ったのが三回目の夜だった。
 左馬刻の匂いを嗅いでいると、鼻の奥がツンと痛む。目の奥が痺れて、じわりと視界が滲む。ああ、好きだ、左馬刻。俺が迂闊にも涙を零してしまったのは、何回目の夜だったか。急に泣くなんて変に思われるに決まっている。慌てて、危惧して、なんでもねぇんだと言った俺に、なんにも言わず左馬刻が頭を撫でたのも、子守唄でも歌ってやろうか、ウサちゃんと優しく揶揄われたのも、その時からだった。
 
 
 
「ん……どうした、眠れねぇか?」
 左馬刻が俺の頭を撫でる。いつものことだ。寝付きの悪い俺を宥めるように、ざらついた低い声で甘やかすように尋ねてくるのも、いつものことだ。たまに、仕事で疲れている左馬刻が俺より先に寝落ちする時もあるけどな。
 俺は無言で、首を縦に動かす。これもそう、いつものことだ。
「お前、ホント夜は無口だよな。マジでウサギみてぇ」
 笑いを滲ませて呟く。首を横に振るか頷くだけで意思表示する俺を見て、左馬刻がおかしそうに笑う声を聴くのも何度目か分からない。左馬刻に添い寝をされている間、極力喋らなくなったのは、いつからだったか。意識していなかったから、何回目の夜かは覚えていない。情けない顔を見られたくないと思ったのはいつからだったか。これは、最初から思っていたかもしれない。結局失敗してるが。
 多分、俺は、喋らないことでこの時間を日常とは切り離したかったんだと思う。俺にとって特別に重要で、同時に特別に愚かなこの時間を。だから、いつも通りにならないように喋らなくなったし、いつも通り、きっと涼しい顔をしている左馬刻の顔を見ないように目を逸らした。俺が勝手に特別にしたかった。俺が勝手に、特別でいたかった。
 もしも、想いだとか心だとかいう、言葉にも代え難い不確かなモノを可視化することができたのなら、俺の今の状況も、覆すことができたかもしれない。
────俺の言った『寝てくれ』という言葉の意味を左馬刻が誤解して擦れ違うことはなく、俺の望むとおりに俺を嫌悪し、気色悪いと唾棄し、俺の希望と期待を全て打ち砕く左馬刻を見られたことだろう。
 だが、現実というのはそう優しくない。優しい世界は想像の産物で、不確かなモノは不確かなまま、宙ぶらりんで左馬刻と俺の間を漂っている。
 一体、俺はいつまでこんなことを続けるつもりなんだ?
 何万円、何十万円と、いくら金を支払ったところで、この腕の温もりが、本当の意味で俺のモノになる日は永遠に来ないことを俺は知っている。俺はこの男の特別になどなれない。知っている。左馬刻はきっと、誰にでもこれができるんだ。俺様で手も口も早いヤクザだが、人を大事にして優しくできるやつだから。
 柔らかく俺の頭を撫ぜる手。心地良く、穏やかな低い声。これが優しくなかったらなんなんだ。甘くて優しい、薄っぺらい紙幣二枚分の僥倖。本当は幸せの形なんかじゃなくて、俺の首にゆるりゆるりと食い込む死神の鎌の穂先だということも、俺はよくよく承知している。
 銃で撃たれたような衝撃はない。しかし、甘さに含まれている毒を構わず飲みこんでいるせいで、血はとうに流れ始めている。鎌に塗られた遅効性の毒が、いずれ俺を殺す。ゆるやかな自殺を俺はいつまで続けるつもりだ。
「…………ッ」
 もうやめよう、こんなことは。