軽忽

 見立ては間違っていなかったように思う。

『おーい碧棺ぃ〜〜見てるか~~? ……ちっとは返事ぐらいしろやぁ。アンタの大事なイロがこれから何されるか分かってんのかぁ?!』
 煽りと同時に品性皆無な笑声が沸き、彼らの携帯端末を通り、左馬刻と理鶯の有するモニターのスピーカーを通して出力された。
────やっていいことと悪いことの区別が付かないのは真性のバカだ。戦場に於いて即死するだろう。
 その映像を眺めていた理鶯はそう思った。
 黙って見守ることに徹する助手席の理鶯の隣で、左馬刻が異を唱えることもない。何も答えず、ただソレを面白くなさそうに眺めて煙草を吸っている。ふぅ、と吐き出された紫煙が、潜伏している車中の空間に漂うだけだ。空いたドアガラスの隙間を通り、ハマの夜風に攫われていく。
 ところで左馬刻が銃兎と最後に会ったのは二週間ほど前で、今片付けているヤマの事後処理が終われば会えるはずだった。銃兎の休みの予定をいち早く押さえて心待ちにしていたのに、警察業務ではなくヤクザからの妨害に遭わされるとは。お互い敵の多い生き方をしているから、当然ではあるが────早く会ってお前のコーヒーが飲みたい、と今朝は電話口で聞いたばかりだったから、早く帰ってこいよと殊更に思う。
 馬鹿な連中は無反応を貫く王に興を削がれたらしい。
『……んだよ……チッ、つまんねーな……まぁいいか。なぁ入間さーん。分かるか? 今これ、碧棺の携帯と繋がってっからよォ』
『なんか言いてぇことあるかァ?』
『お別れのご挨拶でもしろよ』
『遺言ってヤツ? アツいなぁオイ』
────ベリッ!
 口に貼られたガムテープを勢いよく引っぺがした。
 さぁ……何と言うのか。左馬刻と敵対する組の構成員に拉致されてきたという、このシチュエーションに相応しい言葉。
 例えば「助けて」「怖い」「まだ殺されたくない」なんてのはどうだろう。今生の別れの悲しみを訴える様は弱弱しくも必死で、無様で、最高だ。それをこの、不遜で如何にもプライドが高そうな、いけ好かない男が言うなんて。波立つような興奮にひたひたと包まれている空気。それが分からないほど鈍くはないだろう。
 下衆な高揚感の目と鼻の先で、銃兎が息を吸った。小さく吐き出す。この場に怯える心を落ち着かせるために一息ついてみたに違いない。憐れな美しい男が次に息を吸った時、その気丈な瞳が泣きそうに歪み、弱々しい懇願が溢れることを、空っぽの頭で、鼻の穴を膨らませて、待ちかねていた。
『……まったく。貴方達は揃いも揃って何なんです? 小物に随分とナメられたもんだ。お前らみてぇにド暇なヤクザ共と違ってなァ、俺は忙しいんだよ!!』
『え、』
『クズ共の掃除どころか事務仕事だってこうやってチンタラしてる間にも溜まってんだ!! 邪魔すんじゃねぇよ左馬刻に帰りが遅いってドヤされるの俺なんだぞ! 大体、真っ向から挑んで勝ち目のない相手だからイロ攫って脅せば何とかなんだろって発想がもう安直すぎんだよ。そんなんで震えて助け待ってるようなイロをアイツが選ぶわけねぇだろ左馬刻ナメんな。オラ停めろ。降ろせ。どこに向かってんだか知らねぇが逃げたって無駄だ! どうせこの車は遅かれ早かれ追跡されて見つかる。さっさと降ろさねぇとテメェら全員地獄で後悔すんぞ分かってんのかボンクラが!! あ゙ァ゙!?』
 普通に考えて殺されてもおかしくない状況の中で、本職さながらの怒声が車内に響き渡った。
 微塵も恐怖など感じていないと分かる説教と文句。威勢と純然たる怒りが発露している。ヒプノシスマイクがなくとも、放たれる言葉の弾丸は充分に武器として成立するのだ。
 理鶯は、きっと同じ思いでいるに違いない隣席のリーダーを見た。視線を交わして微かに笑い合う。左馬刻は相変わらず黙り込んだままだが、口端が上機嫌に釣り上がっていた。俺らのウサちゃん相変わらずスゲェなぁ、とでも言いたげだ。長い睫毛に飾られている紅玉の瞳が輝いて、映像の中にいる可愛い兎をすっかりと愛でている調子だ。煙草を吸うのすら、とっくに中断していた。
『えっ!? はぁ!? あっ、おい』
『聞いてんのかオイ車停めろっつってんだよこのクソボケカス野郎共!!! しょっぴくぞッ!!!』
 ガツンガツンガツンガツン!!
 長い足で運転席を蹴りたくる銃兎の映像が、二人の車中で流れた。ガツンガツン音を立てながら暴れる反動で目隠しがズレて、全ての蹴りが空振ることなく命中している。その映像と音声は、左馬刻と理鶯の心をほっこりさせた。年明けから大して休む間もなく連勤続きであることへの八つ当たりが多分に入っていることも、二人は無論知っている。
 しかし、映像の中の彼らは(当然ながら)全く和むどころではなかった。『オイこれのどこが遺言だ!?』『やべぇよコイツ!』『めちゃくちゃ蹴ってくんだけど!!』『蹴ってくんだけどじゃねーよ! 見てねぇで止めろやアホ!!』『手ェ縛られてんだからマイクは無理だろ、オレらが有利だ!!』『車停めて押さえつけろ!』などと土壇場を何とか鼓舞して、銃兎は後部座席に押さえつけられてしまった。
 銃兎が押さえつけられている姿を何とかカメラに映すことに成功したらしい運転席の構成員は『碧棺よォ! なんだよ、とんでもねぇなこのサツは!!』と引き攣った声で言った。左馬刻は、やはり返事をしない。先程からずっと、繋がっているはずなのに左馬刻本人から何の応答も返ってこない。電話の向こうは静まり返っている。
『……へへ、入間サンよォ。碧棺の野郎、さっきから何にも言わねぇぜ?』
『…………』
 あの短気な火貂組の若頭が、一言も言い返してこない────その事実をどう捉えたのか、男は更なる軽挙妄動に出ていた。
『アンタまで黙りになってんじゃねぇよ。なぁ、アイツ……テメェが捕まってもどうでもいいんじゃねぇか? 愛されてねぇんだなァ。カワイソーに。呆れられてんじゃねぇのか? 碧棺の野郎に捨てられんだよお前!』と、銃兎の目の前で宣告したのだ。
 銃兎は、連れてこられる際に殴られでもしたのか唇の端が切れて滲んだ血を、ぺ、と吐いた。マゼンタグリーンのバイカラーの瞳は凪いでいたが、捨てられた、という言葉を聞いた瞬間、虚を突かれたようになる。
『……捨てられる? 私が…アイツに……?』
『そうそう残念ながら……へぇ、電話切れちまった。見ろよ』
 画面越しに左馬刻と繋がっていたはずの端末が、通信を途切れさせた。証拠だとばかりに見せつけて、いい気味だと嗤った。間違いない。これが答えだ。碧棺はこの男を切り捨てたのだ。囚われの身になったと知ったところで、左馬刻にとっては取るに足らない存在だったのだ。だから、わざわざこちらの声に返答することもなかったのだろう。
 こりゃ随分な見立て違いだったなァ、と憐れみ半分、愉快さが半分で、左馬刻に見捨てられた男を見下ろす。見捨てられた男────銃兎は冷えきった眼差しを向けると「俺が左馬刻に捨てられたらお前のせいだな。ぶち殺すぞ」と言った。
「……へ?」
「へじゃねぇよ責任取れや! ア゙ァ゙!?」
「はぁぁ!? ……な、なんでオレがそんな責任」
「テメェが余計なことするから!!! そのせいで左馬刻に面倒かける羽目になったんだろうが!!! どうしてくれんだケジメつけろや!!!」
「ヒッ、分かった、分かったから! 静かにしろや鼓膜全部破れるわ! おいお前ら、もうコイツやべぇから!! もういい! コイツは使えねぇから車から降ろしていい! ッうぉあァ゙!? やめっ、」
「まだ話は終わってねぇぞ!! いいか聞けボンクラ? 左馬刻が俺のこと愛してなくたって俺は好きだから別にそこは良いんだよ!! だがテメェらクソカス共が余計なことしたせいで左馬刻がケジメ取って俺と別れるっつったらどうすんだ!! どう落とし前つけんだテメェ左馬刻以上の男がこの世に存在するとでも思ってんのか!?!? アイツに捨てられたら一生許さねぇし呪うし来世まで後悔させてやるからな!!!!」
 アイツは、左馬刻は、左馬刻はなぁ、俺の一番の男なんだ!! 俺の一生丸ごと、人生懸けてる男なんだよ!! それなのにお前らのせいで左馬刻に捨てられたら俺は────

 怒りと悲しみと熱烈な愛を訴える銃兎の叫びは、何者も侵せない重みと迫力があった。そして、銃兎の哀しみと怒りの激流を堰き止めたのは言うまでもなく碧棺左馬刻、張本人だった。逃げ出した数人の下っ端の回収は理鶯に任せて、左馬刻は宥めるように「じゅーと」と、一言だけ呼びかけた。それはとても見捨てたとは思えない、柔らかな声をしていた。運転席で硬直していた男は、当然だがそんな甘さを含んだ火貂組若頭の声など聞いたことがない。状況に理解が遅れる。

「銃兎、銃兎。俺だ。ったく落ち着けや」
「!! 左馬刻、ッ、理鶯も……!」
「テメェがキレてるとこヤクザ顔負けって感じだよなァ。……ウサちゃんのお仕事中にコイツらが邪魔して拉致ってきたのが悪いんだろ。そんなんでウサちゃん捨てねぇわ……つか何があっても俺様は手離す気なんざねーけどな。ほら解けた。あーあー手首擦り切れちまって顔も殴られてよォ。殺すしかねぇなコイツら」
「左馬刻……っ、さまとき……!」
 ずっと手首を拘束していた縄を解いてやると、もう堪えきれないとばかりに、ぎゅうっとしがみついてくれた。傷なんかどうでも良いらしく、遠慮もない。左馬刻が背中をゆっくり撫でてやると、銃兎の身体から力が抜けた。目隠しが外され、自由になった両手。左馬刻を抱きしめて、ほっと息をつき「……久しぶりに顔見たな」と零した銃兎は、モニター越しに見ていたよりも疲れていることが分かロクる。コーヒーでも食事でも何でも振る舞ってやりたいが、今は束の間の休息に身を委ねさせてやろう。
 左馬刻はクタクタの銃兎を抱きつかせてやったまま、運転席で縮こまっている構成員の男を睨みつけた。さぞ無慈悲で恐ろしい表情をしているのだろう。ヒッ、と情けなく空気の抜けた悲鳴が漏れた。しかし、クタクタの体勢のまま「左馬刻」と呼ばれ「んだよ?」と気遣わしげに応じる声はと言えば、打って変わって穏やかだった。
死体ロクが出たら俺の仕事が増えるんだからな……」
「分ァってる。理鶯もいるし舎弟の奴らとうまくやっから心配すんな」
「ん……それにしたって、俺を左馬刻のイロだと勘違いして攫うなんてイカれてるよなぁ……ふふ、逆に利用してやりましたけど」
「最高だったぜ? もう演技じゃなくて一生俺の男になれンだろお前……俺様は別にその、お前なら」
「バーカ、もう芝居は終わりだろ。にしても俺ってマジでそんな風に思われてんのか? なんかお前に悪いな……」
「んなもん便所コオロギ共のオツムが足りてねぇだけだろ。……俺様の仲間を変な目で見やがって、やっぱ殺すしかねーわ」
 見立てはやはり、間違っていなかったのだ。吹っかける相手を間違えていただけで。
 左馬刻が銃兎の腰を抱き寄せる。身長差でバレないのを良いことに髪へこっそり口付けするのを、その男だけが間近で見ていた。
 
 
 オレをボコした後もテメェらが来るまでずっと二人で手当だなんだってイチャイチャしてやがったんだぞ、お前らんとこの若頭とマル暴は何なんだ、アイツらデキてんじゃねぇのかよ────いかつい火貂の構成員に囲まれた深夜の埠頭で暴露さながらの疑問を呈したのだが、答える者は誰もいない。真冬の海風が強く吹きつける。塩からく冷えた風は、骨折と打撲と出血を癒すには程遠い。
 あの二人にはきっと、二人にしか分からない会話が、世界があるのだ。それはもう、他人が入り込む隙など微塵も無いほどに。
 もう滅茶苦茶に愛しいのだと、若頭の態度が、視線が、分かりやすいほど叫んでいた。ヨコハマ署組織犯罪対策部巡査部長、入間銃兎は仲間であり、碧棺左馬刻にとっての一番の男なのだ。
 碧棺左馬刻が、かの美しい男の耳元に唇を寄せて何事か囁いていたのを、期せずして思い出す。肩に腕を回して、じゃれつくように。
 自分達の前で一片の迷いもなく啖呵を切っていたサツがヨコハマの白い狂犬に何を強請られたのかは皆目見当がつかない。困ったような、それでいて嬉しそうな顔をして、小さく頷いていた。