さよならが溶ける

 疲れた時、安らいでいる時、いい加減眠い時、飯を食ってる時、火を分け合って煙草を吸う時。
 何でもないふとした日常の中で、5cm上にいる頼もしいリーダーをこっそり見上げる、それだけの恋をしていた。5cm上の俺の王様は気づいている素振りはなく、そのことに安心していた。元から人に向けられる視線の多い若頭様だから、それが功を奏したんだろう。
 ちなみに10cm上にいる元軍人の、こちらも頼れる仲間は俺が言わないと課している秘密に気づいているが、言わないでおいてくれている。優しい。だが最近は困っている。前は気づいていなかったはずなのに、とうとう俺が見ていることに気づいてしまったのか、俺の王様────つまり左馬刻とやたら目が合うようになってしまった。俺は慌てて目を逸らす。するとアイツはフッと笑うんだ。揶揄いやがって、やめてほしい。俺の密かな楽しみだったのに、左馬刻に気づかれてると思えばどうしようもなく意識して、うまく取り繕えなくなっちまう。

 俺と左馬刻の関係は元チームメイトだ。MTCを解散したわけでもないのに元って言っちまうのは変かもしれない。だが、中央区の障壁が何もかも壊された今、理鶯も軍に戻ったし、昔のようにラップバトルをしたり、俺と左馬刻がMTCとして活動する機会も減った。それでもサツとヤクザだ。『利害の一致』だとか『利用価値』だとかそれらしい言葉で上手くカバーして、一緒にいる理由を作っていた。だが、左馬刻はたまにその関係を超えて踏み込んでくる。もう昔とは違うんだって言ってるのに、「俺様と銃兎の仲だろ。何が違うんだ何も変わんねーよ」とか怒ったように言って俺の説教なんか聞きやしない。だからタチが悪い。正直、何年経ってもかっこよすぎるんだ左馬刻様は。ただでさえモテるし、左馬刻が何もせずとも女性からの秋波は送られまくりだ。その上あのカリスマ性。男から見ても憧れてしまうくらいだ。強く惹かれているのなんて、当然ながら俺だけじゃないに決まっていた。
 だが俺は幸運なことに左馬刻に命を救われ、あまつさえ左馬刻の身内同然の扱いをされている。
 チームを組んだ時からもう俺も三十路超えて、つい先週の誕生日で34になった。左馬刻が今年で30だって思うと何だか感慨深いし、祝うのが今から既に楽しみになっている。左馬刻は5年分大人になった、んだろう。火貂組の若頭としては申し分ない。そのくせ俺が他の奴と話しているだけで露骨に機嫌が悪くなる。そういう態度を見せられたら期待するだろう。勘違いしてしまいそうになる。左馬刻にとって俺は、今でも特別でいるのかもしれない、と。

「じゅーと。コーヒー」
「ありがとう」
 ダイニングテーブルに挽き立てのコーヒーを置いてくれる。灰皿は共用。左馬刻の家なのに、俺の家みたいに居心地が良かった。鼻に抜けるモカの香りは芳醇で甘さがある。仕事で張り巡らせていた緊張が緩み、ほっと一息。癒されたところで、言おうと思っていたスケジュールを思い出した。何でもかんでもヤクザに事前に伝えて変かもしれないが、俺が勝手にどこかへ出かけると、これもまた左馬刻は機嫌を悪くするんだから仕方ない。
「……来週の土曜、署の後輩の結婚式に行くんだ。帰ってきたらバウムクーヘン食うの手伝ってくれよ」
「引き出物のやつだろ? 理鶯はそんなに甘いもん食わねーしな」
「ああ。アレを俺一人じゃなぁ。左馬刻のコーヒーと食った方が進みそうだしな」
「ウサちゃん一人くらい拾ってやるよ、帰り」
「タクシー使うから良いって」
「良くねぇ。連絡しろ」
「……分かった」
 まただ。こういうところなんだよな、本当にずるい男だと思う。そんな顔されたら本気で惚れそうだ。いや、もうとっくに惚れちまってる。
 そうやって甘えるように間延びした声、他の奴には聞かせるなよ。お前のこと絶対好きになっちまうから。そしたら困るだろ、左馬刻だって。
 俺だから自制できているものの、名前を呼ばれるたびに安定のポジション────あの左馬刻に気を許されているという、これ以上ない居場所を失くしてしまいそうな危うさがある。分かったから、ちゃんと連絡するから、膝くっつけて座ってくるのは控えてほしい。
 
 
 
 「好きだ」と左馬刻に伝える日はきっと一生来ない。男だから、とか、俺じゃ左馬刻に不釣り合いだから、とか、マル暴とヤクザだから、とか、そんな当たり前の理由がポンポンと思い浮かぶけれど、そんなことよりも、左馬刻と煙草を吸って、酒を飲んだり飯を食ったり、何気ない会話で笑ったりする日が来なくなるのが怖かった。
 後輩はとても幸せそうだった。綺麗な女性と嬉しそうに笑っていて、それを見てなんだか鼻の奥の方がツンと痛くなった。学生時代からの仲だったとかで、快活な印象の女性だった。六月の花嫁ってやつだな。
 左馬刻もいつかこんな風に結婚するんだろうかと思えば歳のせいか感慨深くなってしまって、ただの想像なのになんだか泣けてしまって仕方がなかった。友人代表のスピーチとか、誰がするんだろう。俺かな、いやきっと泣くから理鶯に代わってもらいたいな、それとも山田一郎かもしれない────考えながら楽しそうに会話をする新郎新婦を見詰める。嬉しそうに涙ぐんでいる彼らの両親の席が目に入って、胸がツキリと痛んだ。二次会では浴びるほど酒を飲んでやろうとしたが、浴びるより先に左馬刻から連絡が来ていたから、酔いも半ばで帰ることになった。

「銃兎、着いたぜ」
「ん……」
 がちゃり、と鍵を回す音が聞こえる。いつの間にやら辿り着いたらしい自宅マンションのドアを見て、帰って来ることが出来たらしいと安堵の息を漏らす。
 左馬刻がブーツを脱ぐのをぼんやりと見守った。
「銃兎?」と不思議そうな顔でこちらを見てくる左馬刻になんでもないと首を振る。左馬刻はじっと俺を見て、それから溜息を一つ吐き出し「飲み足りねぇとか言ってたけどよぉ、やっぱ普通に酔ってんじゃねーか」と不満げな顔をした。
「違う。……なんか、お前と居るうちに力抜けちまっただけだ」
「……そーかよ」
 これ以上誤魔化す気も起きなかったので普通に降参した。「ほら来いやウサちゃん」って靴を脱いだ左馬刻が軽く腕を開いてくれるから、その腕の中に、ぼすん、と飛び込むみたいに収まった。危なげなく男の俺の全体重受け止めてくれる左馬刻カッコいい。頼もしいやつだよお前は。知ってたけどな。
 ああ、そういえばカッコいい左馬刻の結婚について考えたんだった。結婚。今の状況って、ちょっと新婚さんみたいだな。ほら来いよ、って言うから思わず飛び込んじまった。左馬刻って甘やかすの上手いんだよな。抱きしめる相手は違うけど、多分こんな感じだろう。擬似体験ってやつか。今だけでも体験しておく価値がある……。
「ウサちゃん大丈夫かよ、ポヤポヤしちまって……俺様がお前の世話しろってか?」
「………すまない…」
 左馬刻に甘えすぎてる自覚はあった。左馬刻の体温とか香水の匂いとか、冗談でも抱きしめられたら居心地が良すぎて離れがたい。でも左馬刻は違う。顔は見えないけど、きっとこんな酔っぱらったオッサンに抱きつかれて面倒に思ってるよな。悪いことをした。
「ずっとここで突っ立ってるワケにいかねぇだろ」
 それも、たしかにその通りだ。これ以上ベタベタと左馬刻に迷惑をかけるのは本意じゃないからダイブした腕の中から抜け出そうとする。が、酒で力が入らないせいか、飛び込んだ時はあんなにすんなり入ったのに、いざ離れようとすると、身じろいでも全然うまく抜け出すことができなかった。俺の腰が左馬刻にがっちりホールドされて、丁度動かせないようになってることに気づく。抜け出せないわけだ。
「左馬刻、出られねぇから……」
「へぇ? ……ウサちゃんわざとンなこと言って、そうやって俺様にくっついてたいだけだろ」
「ちが……ッ、お前が邪魔してるんだろ!」
「ひでぇな、俺のせいにすんのかよ。ここまで送ってやったの誰だと思ってんだ?」
 くつくつと喉の奥で笑って、左馬刻は俺の訴えなんか全部取り下げてしまう。腰から俺の背中に片手を移動させて、上半身をぴったりくっつけられた。ああ、だめだ。これは駄目だ。勘違いしそうになる。お前の声も態度も優しいんだもんな。本当にずるい男だ。今ここにいるのが俺じゃなくても、左馬刻ならきっとこうやって優しくしてやってるんだろう。
「ウサちゃん動けねぇなら仕方ねぇな。運んでやらねーと」
「ひっ、ぅわわッ、おいバカ降ろせ……! 落ちる!」
「ちゃんと大人しくしてろや」
 そのままお姫様抱っこでリビングまで丁重に運ばれ、ソファの上に降ろされた。左馬刻にしがみついていたが、ようやく安定を得られた気分だ。
「やべ、お前の靴脱がすの忘れてたわ。玄関置いとくからな」
 左馬刻様、なんか機嫌いいな。ふわふわ浮かれてるのが気配で分かった。俺の代わりに片付けてくれるつもりらしい。俺が提げていた白い紙袋も回収されて、キッチンに消える。戻ってきた左馬刻にスーツのジャケットを脱がされて、それをソファの背に引っ掛ける。ああ、そういえば俺の家にもあるんだよな、左馬刻と共用の灰皿。
 ほら、手袋寄越せ。ネクタイも外してやっから。タイピンとか置いとくからな。テキパキと左馬刻によって衣類を脱がされ、いつの間にかワイシャツとシャツガーターと靴下と下着一枚になってしまって身体が震えた。
「………寒い…」
「お前そのカッコ他のヤツに見せんじゃねーぞ。理鶯でもダメだ」
「こんなみっともないの、見せるわけない……おまえが脱がせるから……」
「…………」
 黙り込んだが、視線がじりじりと焼けつくようだった。こくん、と白く尖った喉仏が僅かに上下する。何を考えてるんだか分からないが、左馬刻に見られるといよいよ恥ずかしくなってきてしまって、乱れたシャツの裾を手で引っ張る。せめて履いてる下着は見えないように隠してから、誤魔化すように口を開いた。
「そ、そんなに見んなよ……。あの、今夜はもう帰っていいから、送ってくれてありがとう、またな、さまとき」
「いや、なンだ……銃兎が風邪ひかねーように泊まってく」
「やだ、そんなのめちゃくちゃすげぇダセェ……なんか服着るから……そうだ、さま、バウムクーヘン」
「冷蔵庫入れといたわ」
「ん……左馬刻、食っていいよ」
「明日食おうぜ」
 明日。つまり左馬刻がウチに泊まってくことは確定事項になっているらしい。「結婚式どうだった」と世間話のように告げられた左馬刻の言葉に「そうだな、良かった」と返せば、へぇ、って興味あるんだか無いんだか微妙な声色だった。自分が聞いたのに。
「……式、というか、二人とも幸せそうで。ご両親だろうな、泣いてたよ」
「そうか」
「綺麗だった。……いつかは、ああいう綺麗な女性と結婚して、幸せになるんだろうな」
「誰の話だよ」
「……誰って、……分かるだろ。お前だって……左馬刻も、いつかは」
 そうなるんだから、と。その先の言葉は喉の奥につっかえて出てこなかった。
 相手はどんな女性なんだろう。左馬刻と並ぶんだから、やっぱり気立が良くて、公私共に左馬刻を支えることができて、家事もしっかりこなせる相手かな。言うまでもなく左馬刻が選ぶんだから美人に違いない。性懲りもなくまた泣きそうになってしまい、腕の間に顔を埋めた。眼鏡壊れたら困るけど今だけ許せ。
 こんなの、好きだと思った瞬間に失恋したのと同じだよな。相手はヤクザで、同性で、一緒に戦った戦友で、チームメイトで。チームを組んだあの日、俺の夢を叶えてやると言ってくれた。何にも代え難いと思うほどに特別で、他なんか目に入らない。
 疲れた時、安らいでいる時、いい加減眠い時、飯を食ってる時、火を分け合って煙草を吸う時。
 何でもないふとした日常の中で、5cm上にいる頼もしいリーダーをこっそり見上げる、それだけの恋をしている。不毛な恋だと、俺自身常々思う。
 嫌われてしまったら、疎まれたら、軽蔑されてしまったらどうなるだろう。自明な答えを目の前にして、押し殺す以外の選択肢なんて無に等しかった。
 きっと、近い将来、他のチームの友人たちの結婚式に出席する機会が訪れたりもするだろう。理鶯も含めて、ほとんどの知り合いは家庭を持つんじゃないか、大切な相手と結ばれるんだろうと勝手に思っているが、あながち間違いでもないと思う。彼らにそういう日が来るのはとても喜ばしいことで、そんないつかの日を夢に見る。友人席には見知った顔がみんな座っていて、誰かが緊張しながら、しかし心底喜ばしいという顔で友人代表のスピーチを読んでいる。新郎も、新婦も、嬉しそうに笑っていて、それを俺も見て、幸せそうで何よりですねと、笑うんだろう────いつか来る左馬刻の結婚式でも。
 できればその時はバウムクーヘン以外の引き出物がいいな、一人で食べるには多すぎるから。

「お前は?」
 不意に投げかけられた質問に理解が遅れた。顔を上げると、左馬刻は静かな目をして俺をじっと見つめていた。
「………俺?」
「銃兎だって、お前の立場からすりゃそんなに難しいことでもねぇだろ」
「…………いや、ないだろ」
「ないって何だよ」
「俺は結婚しない。やっていける気がしないし、みんなが結婚していくのを眺めて、おめでとうって、俺の分まで幸せになってくれ、って言うんだ」
 左馬刻が何かを言いかけて口を閉じた。それがどんな言葉なのか分からないけれど、聞きたくなかったから先手を打った。
「こんな話なんかされてもつまんねぇし困るだろ。やっぱり酔ってるみたいだ、忘れてくれ」
 言わないと決めている好きが綻んで、緩まって、溢れそうになる。ハハ、と誤魔化すために笑ったが、乾いていてさぞ下手くそだっただろう。俺を見つめていた左馬刻が「……水、飲むか」と言ったからホッとした。良かった、誤魔化せたのかもしれない。
「ああ、そうだな。……もらう」
 もらうって俺の家で言うのも変な気がするが、突っ込みは追いつかなかった。左馬刻もそんなことは気にもしてないのか、食器棚からガラスのコップを取り出して、ウォーターサーバーの冷水を注いでくれる。
 もうすっかり慣れたもんだ。清潔で冷たい水がコポコポと音を立てるのを聞きながら、左馬刻の思い詰めたような、緊張が張り詰めたような、なんとも言えない表情に一抹の不安を覚える。寝転がっていた身を起こして、もらった水を喉に通して一息ついた時だった。

「好きなヤツ居んのかよお前」
「…………は、」
 思わず息を飲んだ。左馬刻の顔は、さっきよりも表情が抜け落ちたように見えて、相変わらずの造形美が相俟って怖いくらいだった。質問の体ではあるが、まるで断定しているような、確信めいた問いかけだった。
「好きなヤツに操でも立ててんのかって言ってんだよ。まさか組対の後輩とか言わねーよなぁ? 今日結婚式だったんだろ?」
「なに、言って……そんなわけないだろ」
「それか、……理鶯とか。あとは他のディビジョンの奴らか? それとも、俺の知らねぇ女か?」
「……いい加減にしろ」
「怒るってことは図星かよ」
「左馬刻っ、揶揄うのも大概にしろって言ってんだ……!」
「……チッ」
 ギラつく視線で射抜いてくるのはいつも通りだ。違うのは、何か悩んでいるように見えること。舌打ちしたところで収めようとしているが、苦しそうだった。
「どうしたんだよ。俺が何かしちまったのか……?」
「俺にしろよ」
「……………………え?」
「一日だけでも良いからよ、俺にしてみろって。試すくらい良いだろ、すげぇムカつくけど、お前が好きな相手の代わりになってやるから……つーかソイツより俺様の方がお前と一緒に居ンだろ。お前のこと一番知ってるのは俺だろ。ソイツよりも俺に夢中にさせてやる」
「さ、さま……さまとき、……あの、えっと……いや、何言ってんだ」
「ウサちゃん余ってんなら俺がもらう。余ってなくても俺様が奪うけどな」
「……………………正気か」
「そうに決まってんだろ」
 尚悪い。シラフで『俺様が奪う』なんて言ってカッコつくやつ、中々いねぇんだぞ。左馬刻はその少数に属する稀有な存在だったが、言ってる相手が俺って。
俺が酔っぱらって、夢でも見てるんじゃないかと思った。部屋の照明を拾って煌めく真っ赤な瞳には、俺だけが映っていた。情けない顔をしてるのは見なくても分かった。これが夢じゃないとは信じられなくて、酔っぱらった俺自身の都合のいい幻覚にしか思えなくて、衝動的に冷水を頭から被っていた。
……流石に冷たい。ぼんやりとしていた頭が一気に冷静になった。どうやら夢でも幻覚でもないらしい。目の前にいる左馬刻が物凄くギョッとした。
「は………!? おい何やってんだお前!」
「……頭冷やそうと思って」
「俺にするんじゃねーのか普通」
「俺が幻覚見てる可能性の方が高いだろ」
「……………」
「それに左馬刻に水なんかかけて風邪ひいたらどうするんだ? ……っくしゅん」
「とりあえずタオルと着替え持ってくるわ」
 頭から水を被ったせいで髪とシャツがビショ濡れだった。もうすぐ夏とはいえ、昼間より大分ひんやりした部屋の中で水浸しになった身体からは徐々に体温が奪われていく。
「悪いな、左馬刻」
「バカだろ……銃兎のバカ野郎」
「うん、ごめん」
「水被って忘れてぇほど嫌ならそう言えよ」
 風呂沸かしたら帰る。
 短く告げて居なくなろうとした左馬刻。居なくなろうとはしてなかったのかもしれないが、俺にはそう見えていた。
「左馬刻ッ、まて、行くな……!」
 口を突いて飛び出した声は必死で、懇願するみたいな響きをしていた。冗談だろって笑えたら良かったのか、いや、そんな風に笑えるわけがなかった。簡単に消せる気持ちならとっくに消してる。ダメだ、左馬刻、行くな、俺、本当はずっと左馬刻が好きなんだ。反射的に左馬刻のアロハシャツの白い裾を捕まえようとしてソファから立ち上がる。フローリングも俺の暴挙で濡れていて、靴下にぐっしょりと水が染み込むが、そんなのどうだって良かった。構わず足を踏み出そうとする。いきなり動いたせいか、ぐらっと途中で身体が傾いた。視界が一気に急降下する。視界から左馬刻が消える。最悪だ転ぶ、でも左馬刻を追いかけないと、左馬刻、お前、今日帰ったらもう二度と来ないつもりなんだろ。嫌だそんなのは。俺の感情を無視して平衡感覚が失せる。すぐに来るだろう、身体が打ち付けられる衝撃に備えた。
「………!」
「……ったくいい加減にしろ。どこまで俺を振り回しゃ気が済むんだテメェは」
「左馬刻……」
 俺が硬い床に叩きつけられるより早く、左馬刻が抱き止めてくれたらしい。寒かったぶん左馬刻の体温が温かくて、ぎゅっと背中に腕を回してくっついた。離れたく、なかった。離したくない。
「……じゅーとォ、離せや」
「嫌だ……!」
 お前にどこにも行ってほしくないんだ、俺。
「嫌だじゃねーよ。このままじゃ風邪ひくだろ、タオルと着替え」
「いらねぇ。風邪ひいてもいい。左馬刻が看病しろ」
「…………」
 左馬刻は濡れた俺の髪をくしゃりと撫でて「分かったから離せや」と子供に言い聞かせるみたいな声で言った。ああ、呆れられたな。でも嫌だ。帰ってほしくない。俺はそれに反抗するように首を振って、腕の力を強めた。
「仕方ねーから、今日は俺様が一緒に居てやるよ。明日にはバウムクーヘン食って帰るからな」
「……もう来ないのか」
「いや、まぁ、それは」
「嫌だ。だったらずっと帰さねぇ」
「お前、自分で何言ってるのか解ってンのかよ」
「……分かってる」
「分かってねぇだろ酔っぱらいウサギ」
「左馬刻が好きなんだ、俺、ずっと」
「…………は」
 驚いたような、息を飲む音が聞こえた。俺の腕の中でもぞっと左馬刻が身じろいだ。離れようとしているみたいに思えて、それが嫌で一層強く抱きしめる。左馬刻は振り払ったりはしなかった。
 こんな形で告白するつもりはなかったのに、俺は我慢できなかった。左馬刻がいなくなるのが耐えられなかった。
 好きだ。ずっと好きだった。左馬刻のことが好きなんだ。他の女にお前のこと渡したくねぇよホントは。そんなの悔しいし嫌だし嫉妬するに決まってんだろ。みるみる溢れ出す感情と一緒に、さっき堪えたばっかりの涙まで一緒に溢れ出てきて、すぐ近くでそれを見ている左馬刻にはどうやっても隠せなかった。
「……銃兎、」
 左馬刻は俺の背中を撫でてくれる。その手つきはあまりにも優しかった。俺がしゃくり上げている間中、ただ黙ってそばに居てくれていた。
「俺様で良いのかよ」
「…………?」
「俺様で、後悔してねぇかって聞いてんだ。ウサちゃん泣かせてんの俺だろ」
「……し、ないっ。絶対、絶対に、……後悔なんて、するわけがない……」
「そうかよ。……なら、良かったわ」
 左馬刻の声が、やけに優しく耳に届いた。温かい指先が俺の目尻に溜まった雫を拭ってくれる。
「左馬刻に、好きだって言う日は、こないと思ってた」
「……おう」
「俺は言わないって決めてたから、……好きなやつには、誰より幸せになってほしいだろ」
「…………」
 奪うなんて俺にはできない。そんな選択肢はなかったけど、左馬刻が望むなら、俺の全部を差し出しても良い。それくらい好きなんだ。左馬刻は何かを堪えるように奥歯を噛み締めていて、それから長い溜め息を吐いた。俺の肩口に顔を埋めて表情を隠してしまった左馬刻が何を考えているかは分からない。ただ、俺の背中に回された腕が、強く抱きしめ返してくれた。
「左馬刻の代わりなんていねぇよ。だから、……一日だけ、そうだな、できれば明日までが良い」
「………は?」
「お試し、してくれるんだろ。俺、お前が思うより面倒だし、重いし、家事もできないし、幻滅する……ふぇ、くしゅン、悪い……左馬刻まで濡れちまうな、こんなの。シャワー浴びてくるから」
「行かせねーぞ……! ハイそうですか分かりましたって言うワケねぇだろ。お試しなんか必要ねぇ。テメェが面倒なウサギだってことなんかとっくに知ってて惚れてンだよ何年の付き合いだと思ってんだ!」
「……お試しの方がいいと思うんだ。返品も簡単にできるから」
「ハッ、悪徳警官が何言ってやがる……返品なんか禁止で良いだろ」
 俺に都合の良い妄想のはずだった。でもそうじゃなくて、これが現実なら。水が滴ってる状態で誓うことじゃないだろうが、俺は一生分の幸せをお前に捧げて使い果たしても後悔しないだろう。左馬刻が俺と同じ気持ちを抱いてくれているなら、もう何も怖くないと思った。
「俺様が好きなんだろ」
「……好きだ」
「なら一生ずっと俺だけにしとけ」
 結婚すんならウサちゃんとするわ。付き合うよりずっと先の未来にまで飛躍した宣言をされて、だけどもう何も怖くない俺は頷いてしまう。ふわふわに浮かれまくった「俺も」の返事はすぐにキスで塞がれた。