春に向かう話

「あー、ねみィわ……おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
 すぐ傍でかけられた吐息混じりの声。銃兎も挨拶を返しはした。腹に回された腕の重みを確かめるように軽く触れてみても、左馬刻は何も言わない。泊まりの夜に添い寝するのは、銃兎と左馬刻にとって珍しい出来事ではなくなっていた。むしろ習慣化しそうなのが怖い。
 もちろん添い寝をするだけで何かその先に展開があるわけでは決してないが、それでも銃兎は男だ。好きな相手が同じベッドにいて、意識しない方が無理だろう。
「……じゅーとぉ、こっち」
「っ、なんだよ」
「こっち向いて寝ろ……」
 身体を起こすのを面倒くさがって無理やり反対側に転がそうとしてくるから、自分から身体を反転させる。向かい合うように横になると、目の前の整いすぎた美形がふにゃりと相好を崩したから、不意打ちでときめいてしまった。
「こーやってると身長差なんかねぇのと一緒だな」
「ふふ、……そうだな」
 むしろ少し背が丸まっている分だけ左馬刻の方が低い。この位置から見上げられるのは新鮮だった。眼鏡をしてないせいもあってぼんやり互いの顔が見える程度の暗さの中、瞳の赤色がとろりと微睡に溶けたように揺れている。まだ瞼を閉じるつもりはないらしい。左馬刻にも人恋しいことがあるんだろうな、と思った。
 ここ最近の寒波はヨコハマも例外ではなく、立春を過ぎたとて厳しいこの冬の寒さがそうさせているのかもしれない。二人で寝る分だけ熱がこもってベッドの中は暖かいから、そのために左馬刻は添い寝をしているんだろう。その相手が、自分で良いのかは疑問だが。
「ウサちゃんあったけぇ。落ち着くわ」
「………」
 あったかくて落ち着く、か。左馬刻にとっては快眠グッズに近いのかもしれない。湯たんぽみたいなものか。
(湯たんぽの方が大きさも使い勝手も余程いいと思うけどな)
 それでもお前が必要としてくれているならと差し出してしまっている。惚れた弱みだ。
 お互いの心音がトクトクと一定のリズムを刻むのが、くっつきあっているせいで分かる。これは冬だけの特別なんだろう。春が来ても離れがたくなりそうで困った。いくら暖を取りたいからってくっつき虫しやがって。カップルかよ。俺は左馬刻と付き合ってるわけでもないのに。こんなの好きなやつだけにしろよ人たらしヤクザ。マジでどうしてやろうか。こんなことされたら勘違いしちまうじゃねぇか。何かのきっかけ一つで簡単に崩れてしまいそうな、危うい均衡だった。壊れてしまう前に、現状を改善させたい。左馬刻と、これからも仲間として共に在りたいと思うから。春が来てしまう前に、正しく元に戻らないと。もうカレンダーは3月だ。春の訪れは近づいている。
「……左馬刻。ちょっとくっつきすぎじゃないか、最近」
「あ? ……別に誰も見てねぇし良いだろ。外でベタベタしすぎるなって前に文句言ってきたのウサ公じゃねーか」
「……はぁ。左馬刻には残念な話だろうけどな、俺は本物の湯たんぽじゃねぇんだよ」
「……は?」
「寝る時の快眠グッズが欲しければ、俺が買ってやる」
「は…………? おい待て、湯たんぽ……?」
 きょと、と赤い瞳を瞬かせた顔がやけに幼く見えた。ヤクザなのにかわいいとか狡いだろ、と八つ当たりのような感情を込めて、裸眼で睨んでやる。
「一緒に寝るのはいいけど、ずっと抱きしめてくるのは困ると言ってるんだ。……少しくらい離れてくれ」
「嫌に決まってんだろ!! つーか何だそりゃ……湯たんぽだァ……?!」
 言ってやりたいことはいろいろあるけど、とりあえず今一番言いたいことを言うことにする。

「わざわざ湯たんぽに会いに泊まりにくるわけねぇだろうが……! バカかお前! 妙な勘違いしてんじゃねぇよ……!」
 何をどうしたら湯たんぽの代わりに銃兎を抱きしめて寝てるなんて思うんだよ。ただ湯たんぽの代わりに温もり求めてるだけとか思ってんのか。ンなわけねぇだろ、と至極当然の反論をする。
「……え」
「言わなくても分かンだろ」
「いや分かんねぇよ!……じゃあ左馬刻は、湯たんぽじゃなくて、俺がチームの仲間だから泊まりに来てるんだな」
 そう言った銃兎は、自分で出した結論と言葉に心なしか嬉しそうだ。
「それは、まぁそうだけどよぉ、……それだけじゃねぇっつーか」
「分かってる。俺はお前の仲間で、しかも……そ、それなりに左馬刻は俺のことを気に入ってるし、寝るときは一緒に寝た方があったかくて丁度いいってことだろ?」
「だから違げぇっつの!」
 さっきからなんなんだ、そこ喜ぶとこじゃねぇだろうが!
 照れてんのかモゴモゴして、はにかんできやがって。可愛いカワイイかわいい。めちゃくちゃ可愛いのだが可愛いを通り越して憤りで腹が煮えて左馬刻は声を荒げてしまった。何だこれ全然伝わらねぇぞ。焦りすら覚える。
 気づかねーのかよ、気づけよ、と八つ当たりのような苛立ちが込み上げてきて。
「クソが……!」
 おバカなことを言うウサギの口を己の唇で塞いでしまったのは完全に衝動だった。濡れてはいないけれど柔らかい感触に、身体が熱くなる。銃兎の唇に、今、こうして初めて触れているのだ。
「んぅ……っ!?」
「ふ……は……」
 目の前の身体はひくりと震えたけれど、拒絶されはしなかった。抵抗しないのをいいことに舌を唇の隙間に滑りこませようとすると、腕の中の身体がびくんと跳ねるのが分かった。
「ん、んんっ……」
 いやいやと首を振って逃げようとするから、強引に顎を掴んで口を開かせる。うわ、熱い。舌やわらけぇ。驚くように漏れた吐息まで全部食べてやろうと舌をねじ込むと、くぐもった銃兎の吐息を口の中に直接含まされる。漏れ出す声や呼気すらも食べてしまっているような錯覚。銃兎の舌を食んでから離すと、どちらのものともつかない唾液がつぅ、と糸を引いた。
「……お前、なに……!」
「何されたと思うンだよ。言っとくが湯たんぽにこんなことしねぇぞ」
「……左馬刻、に」
 ……キスされた。
 顔を背けてそう口にしたところで恥ずかしすぎる。腕の中から解放された現在、さっきのは夢かとも思うけれどキスの感触が生々しくて、やけに身体が熱い。心臓がバクバクと音を立てているのは、きっと、いや絶対にキスされたせいだ。
「……銃兎は俺様のこと好きじゃねぇのかよ。なんとも思ってねぇのに一緒に寝てたのか」
 少し拗ねたように唇を尖らせた左馬刻。銃兎の返事も都合も待たずして甘えるように鼻先が擦り寄せられ、
「俺様は快眠グッズなんざ要らねぇ。金じゃ買えねーもんが欲しい」
 今度こそ率直に請われた。ピジョンレッドの瞳に銃兎自身が映る。左馬刻が本気なことは容易に悟れた。
 獰猛な獣の色を宿した両眼に射抜かれてぞわりと背筋が震える。それは畏怖にも憧憬にも似ていて、けれど興奮も混じる、味わったことのない感覚だった。
 心臓に悪いほど整った顔があまりにもまっすぐ真剣に見つめてくるから、ふい、と顔を背けた。熱い。熱いのは頬だけじゃない。耳朶も熱いし、首筋や胸元まで、きっと火照っている。左馬刻に触れられたら泣きそうになってしまうに違いない。
「俺が欲しいもん分かるよな。銃兎はバカなとこもあるけど賢いんだからよ……頼りにしてんだぜ」
「……左馬刻、……俺は、お前が好きだ」
「銃兎からギューしてくれねぇと信じてやらねぇ。いっつも俺からしてたじゃねーか」
「……っ、くそ、ヤクザのくせに年下ぶって甘えやがって……」
 口で悪態をつきながら迷わず抱きしめた。これで合ってるよな、間違ってたらどうしようなんて不安よりも、今すぐ左馬刻を満たしてやりたくて。胸の内側に、くすぐったくて温かいものが広がった。波のように引いては押し寄せるその感覚に、左馬刻の匂いと息遣いと体温が加わって、やはり泣きたくなった。ひどく安心するのに胸が苦しいなんて矛盾しているけれど、決して嫌ではなかった。
「はは、……いつも寝てる時よりすげぇ熱ちィな」
「……お前もだろ」
 抱きしめ返され、二人分の体温が交じる。耳や首筋にあたる吐息の温度もいつもより高い。望めば触れ合える距離で、唇が近づく。ちゅ、と触れるだけの優しい口付けをして、額をこつんと合わせた。柄でもない甘ったるさにお互い視線が合った瞬間に笑い合ってしまった。くすぐったいけれど昨日までとは確かに変わっているのを実感する。
 恋しい相手には触れていたいし、許される限り近くにいたい────そんな欲が出てきた自分に銃兎は密かに驚いていた。春が来るのを恐れる必要は、もうないのだ。