左馬刻に嫌われたいっ! - 2/2

 あれがほしい、これが食べたい、それは嫌。
 最近の銃兎は左馬刻より年上の大人らしくもなくわざとそんなことを言っては左馬刻を困らせ、呆れさせようとしている。「銃兎のことが好きだ」と告白してきた左馬刻に銃兎は頷くことなんて出来なかったし、ヤクザの左馬刻が警察官の銃兎と付き合うことが、左馬刻の利になるとは到底思えなかったのである。セックスは既にしてしまった。絆されかけて頷いてしまいたくなったが、だったら我儘を言うことで左馬刻を困らせてやろう、と思いついた(俺は可愛げのない男だよざまぁみろ)。
 要は左馬刻に幻滅されて嫌われてしまえばいいのだ。
 そう思って始めた銃兎の作戦だったが、今のところ中々どうして、うまくいっていない。こちらの予想と反して、左馬刻に嫌われている気配が全くないのだ。
 碧棺左馬刻は年上の我儘で面倒な男を嫌うどころか、入間銃兎の我儘に付き合い、むしろ嬉しそうに全てのお願いを叶えられてしまう始末で、もっぱら銃兎の悩みの種だった。
 今日の銃兎は左馬刻が不在のリビングへ左馬刻の許可もなく勝手に侵入してみた。
 左馬刻が不在でも、この家は左馬刻の居住空間だ。左馬刻の匂いがする。そうだ、勝手に寝室へ入ったら嫌われるかもしれない。銃兎は以前それをされたとき不本意だったので、今日は同じことをやり返すことにした。ベッドに寝転がると余計に左馬刻の匂いがする。すんすんと嗅いでいるうちに、左馬刻が近くにいる時のような安心感に包まれていく。指先から足先までぽかぽかしてきて気持ちいい。少しだけ……と目を閉じる。少しのつもりがいつの間にか寝入ってしまうのに時間はかからなかった。
 
 
 
「……ん?」
 来た時にはなかった芳ばしい香りで目が覚めた。淹れたてのコーヒーのアロマだとすぐに分かった。身体を起こすと、毛布が腹にかけられていることに気づく。眼鏡も外されて、枕元に置かれていた。目の前に、とっくに帰宅していたらしいと見える左馬刻の姿が。
「左馬刻、……おかえり」
「おー、不法侵入は犯罪じゃねぇのかよウサちゃん。俺様の寝室に勝手に入るなんざイイ度胸だぜ」
「俺のこと嫌いになったか……?」
「ならねぇな」
「………」
「お前、俺様の好きがその程度で失くなるとでも思ってんのか? ナメてんじゃねぇぞ」
 もはや溺れてしまいそうな愛情。堂々と言い放たれてしまい、たった今使っていた左馬刻の枕を俯せで抱え込んで顔を隠した。嫌がらせになるのかは謎だが、せめてもの抵抗だ。
「ただいま、銃兎。なぁウチで何してたんだよ……? 飯は? 食ったのか?」
「なんもしてねぇ。食ってねぇ。……もう帰る」
「あーあー、俺様メシ作りすぎちまったんだよなぁ。コーヒーも余らせたら勿体ねぇし、……な?」
 毛布ごと後ろから抱きしめてくるのはずるい。逃げようがないから、銃兎は小さく頷いた。
 
 
「……うまい」
 銃兎専用のカップに注がれたコーヒーは相変わらずおいしい。ブラックの苦味はスッキリとしていて舌にもたれたりしないし、睡眠したことも相俟って疲労回復だ。左馬刻は向かいの席が空いているのにも関わらず、銃兎の隣に座って飯を食べるつもりらしい。チャーハンと麻婆豆腐と中華スープが横並びにされる。餃子は気に入っている飯店のテイクアウト。それにしても左馬刻はいつ帰ってきたんだろう。全く気付かずに眠りこけてしまっていた。不覚。
「ったく、お前が来てるんだったら餃子もっと買ってきたのによぉ。次から連絡しろや」
「………」
 左馬刻を困らせるために来てるんだぞ。事前に連絡するなんて、そんな馬鹿な話があるか。何と答えれば良いのか、自分の方が困らされてしまい沈黙する。
「他に欲しいもんあるか?」
 嫌味もなく純粋に尋ねられ、銃兎はいよいよ耐えられなくなった。眠る前のことから仔細に思い出していく。勝手にベッドで寝入り、コーヒーを淹れさせ、夕飯を二人分作らせて、拗ねた子どものように黙りこくっている────こんな厭な自分、知りたくなかった。左馬刻と出会って、好きになってしまってからだ。左馬刻に会う前まで、こんな面倒臭くて拗らせた自分はいなかったはずなのに。知りたくなかった、ともう一度心の中で思うのと同時に、今もこうして左馬刻を自分の都合で振り回していることへの罪悪感が良心をチクチクと刺してくる。
「……左馬刻……、悪かった」
 咄嗟に口をついて出たのは謝罪だった。銃兎は左馬刻の顔が見られずに俯く。
「あぁ……? 急にどうしたんだよ」
 左馬刻は不思議そうに聞き返してきた。その手は当然とばかりに、項垂れている銃兎の髪を撫でる。キュンとした。もうどうしようもないくらいに、銃兎はこの王様が大好きだった。仲間としても自分の気持ちに嘘をつくことなんてできないし、好きじゃないと誤魔化すことだって、できなくなっている。
「……俺、左馬刻に、俺のこと好きになってほしくねぇんだ」
「おー。知ってンぜ」
「それで……左馬刻を、困らせてやりたくなって……」
 あちこちに視線を逃がす。言えば言うほど俺は何やってるんだと思えてならないし、まともに顔が見れない。こんな自分を左馬刻は嫌いになるだろうか────そう思うと、手足の先が冷たくなる。左馬刻に嫌われたかったはずなのに、
「へぇ……そうかよ」
 その低い声も吐息混じりの相槌もいつも通りすぎて、込められた意図が読めなかった。左馬刻に呆れられて、冷たい目で見下ろされる。だって左馬刻は何もこんな29のマル暴のサツなんか選ばなくても、もっと可愛げのある相手を選べる男だ。ヨコハマの王である左馬刻を素直に慕い、態度でも分かりやすく好意を表現してくれる相手が、選択肢が、幾らだって。テメェみてぇに面倒なやつ付き合ってらンねぇよ帰れと吐き捨てられるのを覚悟した。

「そりゃ悪かったな」
 左馬刻は笑って、優しさを感じさせる声で『悪かったな』と言った。待ってくれ、なんでお前が謝るんだ。
 銃兎が思わず顔を上げると、頬にチュッと口付けられる。
「この程度じゃ俺はお前のこと嫌いにならねぇし、困ってもやれねぇよ。ハッキリ言ってウサちゃんクソ可愛いとしか思えねぇ」
「な……」
 なにを言ってるんだ。前々から思ってたが、さすがにいくら俺のことが好きだからって、俺に甘すぎるんじゃないのか。もっと怒れ。ハマの狂犬で俺様ヤクザだろ。なんでキスなんかする。
 思考は回転して熱に似た憤りを産むのに、どうしてかそれきり言葉が出てこない。手足の強張りは解けたものの、目を丸くして口をはくはくさせて絶句する銃兎の顔は真っ赤になっている。左馬刻は銃兎の動揺する姿が面白くて仕方ないらしく、何かを企むようについと片眉を上げた。
「銃兎、食えよ」
 湯気を立てる出来立てチャーハンを自分のレンゲで掬ったかと思うと、まったく躊躇せずに銃兎の口元に差し出してくる。
「な、なんだ?」
「困らせてぇんだろ? 銃兎にアーンしてたら、俺様は自分の飯が食えなくて困る。すげぇ名案じゃねぇか」
 ────なんだそれ! どんな理屈だ!
 穴があったら今すぐ入りたい。言い知れぬ羞恥が胸中いっぱいに膨れ上がり、あっという間に最高潮に達した。レンゲが唇に触れて、軽く押しつけられる。湯気を立てるチャーハンは焦がし醤油の香ばしい匂いがしていかにも美味しそうだ。心臓がうるさく跳ね回って余裕を奪っていく。
「口開けろ、銃兎」
 思考停止した銃兎の身体は、自らの王が命ずる通りに動きそうになった。すんでのところで踏みとどまり、仰け反ることに成功する。
「あ、オイ逃げてんじゃねぇぞ」
 左馬刻のピジョンレッドの瞳は光を湛えたまま、じいっとウサギの一挙手一投足を見つめていた。どこか不満げにも見えた。
このまま黙ってしてやられてばかりで堪るか。なんとか一矢報いなければ。ここでおめおめと引き下がる選択肢はない。
「ッ……いやだ、食わない。熱すぎて食べられない。やけどする」
 苦し紛れの一投。放つと同時に嫌な予感がした。予感は的中する。左馬刻は一切迷うことなく、フゥフゥと数回息を吹きかけて冷ましてみせた。
「これで良いだろ」と再びレンゲを寄せられると、もう逃げ場がなかった。ヤケになって開いた口。舌の上にレンゲが乗る。おいしい。空腹に染みる。とてつもなく美味い。左馬刻の手料理は最高だ。
「次は何食いてぇ?」
「……うう」
「んだよウサ公、俺様の作ったメシがマズくて食いたくねぇってか?」
「食べたいし、うまいに決まってんだろ!」
「麻婆豆腐も試してみろよ。口開けろ」
 左馬刻に優しく命令されるだけで、口を開けることが決定事項になる。口元に運ばれたレンゲから、ぱくんと食べた。……ピリッと舌先が山椒に噛まれたが、その辛味がクセになる。くやしい。おいしい。左馬刻のばかやろう。ヤクザ。意地悪。こんなの嫌いになれるわけねぇだろ。
「うう……」
「ウサちゃんそればっかりだなァ」
 不満があるならハッキリ言ってみろや、とでも言うような声だった。心底楽しげに口角を上げる。
「もっと俺様を困らせてみろよ」