「……左馬刻」
初めてだった。左馬刻に添い寝されている時に、こうして呼びかけるのは。
いつもと違って声を発した俺に左馬刻が驚いたのを、左馬刻の腕を通して感じる。分かるに決まってんだろ。頭の下で、左馬刻の腕の筋肉が緊張しているから。
今日も、いつも通り、俺がこの場で声を出すことはないと決めこんでたんだろう。俺の声を聞いて、左馬刻はどう思っただろう。腕の中にいるのが俺だって、それが不自然だって、気づいたりしたか?
もう終わりにしたいって左馬刻も思っていたり、するんだろうか。
「……んだよ、珍しいじゃねぇか」
戸惑いと、躊躇い。俺に対しての嫌悪感が、その声から感じられないことに落胆する。同時に、嫌悪されなかったことに安堵する。拒絶してほしい。許容してほしい。相反する感情は、どちらも確かに俺の中にあった。
だがこのままずっと許容され続けることはないと、俺は知っている。俺は左馬刻と過ごす夜を金で買っているだけだ。対価を支払って得られる僥倖。仮初めの許容の先に、俺のことを好きになるお前はいないだろう。
────だったら、俺の望みは一つだけだ。
「今まで悪かったな」
何がだよ、と尋ねてくる左馬刻が瞳を揺らしているのに苦笑する。お前ってやつは優しいな。俺の頭を撫でたあと俺の腰に戻っていた左馬刻の腕をそっと退かし、身体を起こす。
「銃兎……?」
「左馬刻。いつも……ずっと、言えなかったが……お前がいてくれて、俺は救われてる。持ちつ持たれつにしては、随分と助けてもらってるよ。だから、ありがとう、左馬刻」
「え、オイオイオイ……いきなり何らしくねぇこと言い出してんだ悪徳ウサポリ公は。テメェまさか明日死ぬかもしれねぇとか……ンなこと言わねぇよな」
照れているのか茶化してくる。身体を起こした俺に合わせて肘を突いて半身を起こしてくるのが、闇に慣れた視界でうっすらと見えた。表情はよく見えなかった。そのことに俺はまた、落胆し、安堵して、その身体に覆い被さった。
「お前になら殺されてもいいかって思うよ」
「は……?」
左馬刻の戸惑う声を吸い取るようにして唇を塞ぐ。左馬刻の白い睫毛を今までで一番近くで見た。初めてのキスだった。実は想像したことくらいはあるけど。ソフレのルールで、キスはNGだったはずだ。一回二万、オプション無し、追加要求も無し。俺はその約束を破った。存外、左馬刻の唇はフニフニしてて触れ心地が良くて、柔らかいことを知る。頬に手を添えて、驚きと戸惑いに半開きの左馬刻の口腔にぬるりと舌を侵入させ────途端、ドンっと音がした。
「オプションは無しっつったろうが……!!」
強く胸を突かれたのだと理解した時には、左馬刻は完全に身体を起こし、唇を手の甲で雑に拭っていた。二万円分の許容は決壊し、声は硬質化し、怒りに沸いていた。優しさは消え失せ、その体躯が暗闇の中でも分かるほど憤りを漲らせている。
俺は安堵し、そして、落胆する。突かれた胸が痛い。苦しい。だが、堪える。これは必要な痛みだ。この苦しみこそ俺が望んでいたものだ。拳を握り締める。震える口を開く。
「今のは、違う。そういうのじゃねぇよ……オプションとか、金とか、そういう話じゃねぇんだ」
暗闇の中、左馬刻の顔を見つめる。表情まではやはり、見えない。が、それでいい。見えてしまったらきっと、堪えきれない。全身から怒りのオーラが放たれてる左馬刻を目の前にしたら、俺は直視できないかもしれないんだ。左馬刻が好きだ。惚れている。左馬刻からの拒絶を望みながら、拒絶されることを恐れている。白くなるほど握り締めた拳が震えているのも分かる。きっと声も。今もしラップバトルしたら負ける。
「俺がしたかったんだ」
「……なに、を言ってやがる」
「俺が、お前に、……左馬刻に、ずっとキスしてみたかったから、した。そう言ってる。殴るか、蹴るか、突き飛ばして、お前の部屋から追い出してくれていい……すまない。チームから抜けろと言われれば、それも従うから」
「ハァ!? んでMTCから抜けンだよ! テメェを他のチームになんざ……いや、その、殴るとか蹴るとかも意味分かんねぇしよ……つーか、マジで突然どうした……?」
左馬刻の全身全霊の怒りに困惑が混じる。瞬間湯沸かし器みてぇな熱い怒りが鎮火されるくらい驚いたか。そうだろう。意味が分からないだろう。お前に俺の気持ちは。想いだとか心だとかいう、言葉にも代え確い不確かなモノを可視化することができたのなら────それはやっぱりできないが、言葉にすることで、代え難いその一片を伝えられる。震える息を吐きながら俺は笑う。ダメだ、堪えろよ。ここで泣いたら、左馬刻に、最後に伝えられなくなる。
「好きだった。お前のことが」
「……は……? す、……好きって、お前……」
「添い寝なんてしてほしかったわけじゃなかったんだ、本当は。……あの日、最初の日、覚えてるか? 寝てくれって言っただろ。……アレな、言えなかったんだけど……抱いてくれっつったんだ、俺は。お前とセックスしてぇっつったんだ。俺はお前に抱かれてぇって……左馬刻が好きで、抱いてほしくて、そう言った」
左馬刻が目を見開く。はく、と言葉にならない息の音がした。らしくもなく言葉を使えなくなっちまった左馬刻に、俺はまた笑う。こんな時なのに、ビックリしてる左馬刻が可愛いなって思うとか、末期だな。
「もちろん、お前が抱いてくれるなんて思っちゃいなかったよ。無理矢理襲うつもりもなかったからそこは安心してくれ。……左馬刻が俺とセックスなんかできるわけねぇだろ? 分かってるよ俺だって。だから、殴ってくれれば良かったんだ。気持ち悪ィって吐き捨ててくれたら、それで」
言いたくて言えなくて俺の中に澱んでいた劣情を吐露するうちに、拳の震えは止まった。深く息を吸う。吐く。覚悟は決めた。
「お前がよく分かってねぇのを良いことに、お前を利用した。抱かれてぇほど好きなのにソフレだなんて甘えてた。今まで悪かったと思ってる」
「…………っ」
「気持ち悪いだろ。年上で、チームメイトで、男で……大丈夫だ。いいんだよ、それで。ハマの王様に許可もなくキスしちまったもんな。気色悪かったよな、左馬刻。殴りたきゃ殴れ。それでもう、終わりにするから」
最後まで言いきった俺は、左馬刻に真っ直ぐ向かい合って、正座になった。強く目を閉じ身体を緊張させる。ブン殴られても、腹や鳩尾を蹴られても、意識を保っていられるように。そうして左馬刻に制裁されるのを待つ。
「…………」
「…………」
なんだ? やけに静かだな。ブン殴られることを想定してたのに、ブゥンとエアコンが風を送る音ばかり耳に届く。肝心の左馬刻は怒鳴りもしてこない。
体感時間は数分。決して気の長くない俺はいい加減に痺れを切らし、目を開けた。左馬刻と目が合う。拳ではなく腹の底からの溜め息が落とされ、前髪をかき上げる仕草をしたあと「あのなぁ銃兎」。
「分かってねぇのかよ、お前」
左馬刻が発したのは、罵詈雑言ではなく、そんな問いかけだった。
「は……?」
「いや、は? じゃなくてだな……そりゃまァ勘違いした俺様も悪かったけどよ……でも銃兎が、んなエロいこと、俺に言うとか、思わねぇだろ……」
「はい??」
先ほどまで明確だったはずの状況が、急激に分からなくなっていく。左馬刻は何故かもごもご照れてるし。
「ちょっと待て、待ってください、……なんの話だ。なんだこの時間」
「他のやつに添い寝されるくらいなら俺様で良いじゃねぇかって思ったんだよ。つーかなんだよ他のやつとか。そいつムカつくからブチのめすわ。銃兎てめぇ他のやつとも一緒に寝たりしてねぇよな?……ああ、添い寝じゃなくて抱かれてぇんだったか……いや余計悪いだろ! てめぇマジで俺様だけだろうな?」
「当たり前だろ!? お前なに言ってんだ! し、しらねぇやつぶちのめしてくれなんて、俺、言ってねぇし、それで、あの……んん、だから……」
ついていけない。頭が。左馬刻は何を言ってんだ。俺の目が回りそうだ。痺れたような鈍い返事しか出来ないのは、断じて正座のせいじゃない。左馬刻のせいだ。
俺を混乱させた犯人である左馬刻は、俺の様子を見て「ウサちゃんがワタワタしてんの珍しいじゃねぇか。可愛いな」と関係ない供述をした(どこがだ!? 全く可愛くねぇと思う)。それからようやく合点がいったとばかりに頭の双葉をぴょこ、と揺らす。
「……ああ、そうか……そうだな。ウサちゃんは分かってねぇんだもんな。これ言っとかねぇと。俺様はお前に惚れてんだよ」
「は……はぁっ?!」
俺が先ほど自決する覚悟でした告白をなんか日常生活を送るみてぇにサラッと口にしたばかりか、心底から驚く俺を見て呆れたように笑った。
「……いやンな驚くかよ。俺すげぇ優しくしてたつもりだったぜ? ……一緒に寝てる時、ウサちゃんが俺様の胸でスンスン泣くんだもんよ。泣かれたって今更他のやつに渡すつもりねぇから、いっつも俺があやしてやっただろ」
「ンなの、か、金のぶんだろ……!」
「あ? ……あァ、そうか。……ほら銃兎。お前の金、すぐ返せるぜ」
「!?」
左馬刻はベッドサイドの机に置きっぱなしになっていた財布を見せてくれた。一枚一枚数えてはいないが、過ごした夜のぶんだけの、それがありそうな。俺から受け取った金を使っていなかった、らしい。くらりと目眩がする。俺が見ていた現実が次々と揺らいで壊れていく。
「……銃兎は俺じゃなくて他の誰かのこと好きなんだろうなって思ってた」
でもお前がキスなんてしてくるから、俺様はソイツの身代わりかよって思ってな。カッとなって突き飛ばしちまったわ……と。バツが悪そうに弁明した年下のヤクザが俺に手を伸ばしてくるから、俺は甘んじて再び抱き寄せられながら、深く深く溜め息を吐いた。左馬刻の体温は、こんな状況でも俺を落ち着かせてくれた。
「……なあ銃兎、お前ほんとに明日死ぬわけじゃねぇよな?」
「ふ、……さっきも言ってたじゃねぇかそれ」
「笑うんじゃねぇや。俺が銃兎と……両想いとか、幸せすぎて、流石に不安になンだろ」
「左馬刻も不安になったりするんだな……?」
「ふん……何しでかすか分からねぇウサ公を懐に入れてる俺が不安にならねぇとでも思ったか。残念だったなカッコ悪いかよそれでも欲しいと思っちまったんだよ仕方ねーだろ。てめぇも腹括れや銃兎」
最後の一言はいつもと変わらず俺様な調子で言っているが。滑らかなその背を撫でてやる。カッコ悪くなんかねぇよ、お前。俺はそんなお前も好きなんだ。
「左馬刻……悪かった。不安にさせてごめんな」
「銃兎……」
事情を知らなかったとはいえ、俺の要求は左馬刻には酷なモノだった。俺はやっぱり、あの夜、言うべき言葉を間違えたんだと思う。
「寝てくれ」でもなく「抱いてくれ」でもなく、俺の望みは、一つだけだ。不確かなモノを不確かなままにしていたのは俺の方だ。
「……左馬刻が好きだ。俺と、一緒にいてくれねぇか」
言葉にするのはそれだけでいい。お前の隣にいたい。俺をお前の傍に置いてくれ。それ以外に何を望むというのか。最初からそう言えば良かった。
「最初っからそのつもりだったわクソが……!」
左馬刻が俺を抱きすくめる。考えていた言葉が同じでくすぐったい気分になりながら、いつものように二人一緒に寝転がって添い寝した。眠くなって今までと違う朝を迎えるまで、お互いの温もりを分かち合う。警察だとかヤクザだとか表向きの肩書きは関係ない。最悪な取り合わせでも、欲しいと思っちまったんだ。こうなれば心ゆくまで求めてやろう。お前とならそれも悪くない。
左馬刻の腕の中で、最初の夜を思い返す。『私と寝てくれませんか』と言った日の夜を。俺相手にそんな気にはならないだろうと確信しきっていたが、前提からして違っていたとは。
「……なあ、なんで俺の服、脱がしたんだよ」
「はっ、そりゃお前、シタゴコロってやつじゃねぇか……どうせ二人で寝んならウサちゃんのハダカ見てぇだろ。冗談ならビビって止めてくると思ったのに、お前、逃げなかったよな。結局あの一回しか脱いでくんなかったけどよ」
逃げなかったというか、脱ぐ、イコール、セックスだと思って期待してたんだとは恥ずかしいので言わないでおこう。
「ソフレは今日で終わりだろ……? なあ、いつ脱いでくれんだよ。俺様の前で裸になってくれる気はあんだろ銃兎」
「……んん。まあそのうちですけど……」
「ハハッ、んだよその間は。意識してンのか?」
「意識すんなって方が無理だろ。……だって俺、……左馬刻が好きなんだ。お前のこといつだって好きだったから」
「だァもう、黙りやがれじゅーとぉ……俺様の忍耐力を試してきやがって。わざと煽ってくんじゃねーよ」
「ふふ、……そうか。お前、ほんとに俺のこと抱いてくれるつもりなんだな」
冗談でなくそう言えば、左馬刻の方からキスされた。口に触れるだけのキスがこんなに幸せなんて。ちゅ、と何度か触れ合わせたあとは密やかな吐息すら甘い。
「…………好きなやつとは気持ちよくなりてぇのが普通だろうが。二人で一緒にするもんだから、……ウサちゃんが良いって言うまで待ってやるよ」
「さまとき……」
「慣れねぇうちは、ちっとばかし痛てェかもしんねぇけど……」
「あのな、痛くてもいいよ、俺」
それ以上もう言葉にならなくて、煽る余裕なんかなくて、代わりに左馬刻の身体を抱きしめた。ガラにもなくきゅんとしたし嬉しい。やっぱり左馬刻を好きになって良かった。自棄になってフラれるために誘った俺は、まったくもって馬鹿だった。勿体ねぇな。
「痛くていいってこたァねぇだろ……俺様のこと好きすぎだわウサちゃん」
左馬刻の腕がいつもより強く俺を抱き寄せる。胸の奥がじわりと熱くなったのは、ずっと隙間を埋めてほしかったことを思い出したからだった。
もしも、なんて必要ない。想いも心も、確かなものがここにある。